新制中学校の独立校舎を設置することが義務づけられた各市町村では、いずれも財政困難のため校舎の早急な建設には不満であった。たとえば南埼玉郡南部の町村長は、昭和二十二年五月、「新制中学の設置に関する建白書」を埼玉県知事に提出していた。
親愛なる知事閣下に謹んで南埼南部全町村の声を代表して建白申し上げます。祖国日本の再建は、教育の民主化に俟つことは自明の理であり、この意味において今次実施された新制中学が、邦家百年の大計たることは何人も疑を挾まぬところであります。然るに当局は、地方分権の美名の下に責任を挙げて町村に転嫁し、拱手傍観なんら為すところのないことは、われらの最も遺憾とするところであります。今や町村の財政は意外に逼迫せるのみならず(中略)、新制中学の設置は実に町村にとって過大な負担となり、未だになお開校の運びにさえ至らぬものが一にして足らぬ有様であります。今にして当局が諸種の対策を立てゝ財政上資材上の便宜と援助とを供与することなければ、折角の大計も画餅に帰し、民主日本の再建は遂に日暮れて道遠しとなることを心から憂うるものであります。
とてその適切な措置を講ずるよう訴えている。また埼玉県町村長会評議員会においても、同趣旨の建白書を採択、大蔵・文部両省に陳情することを決議していた。
こうした町村の窮状に対し、埼玉県では校舎建設などに対する補助財源の一つとして、二十三年度から総額四〇〇〇万円の宝くじを発行、収益金二〇〇〇万円を県下各町村に配分することになった。宝くじの額面は二〇円(二十五年度は三〇円)であり、一組から一〇組までそれぞれ二〇万通を各市町村に割当てた。たとえば増林村では二十三年度三五九五枚の割当をうけたが、増林村ではこれを一戸当り、およそ五枚程度を引受けるよう各部落に依頼している。なお宝くじ抽籤の特等は一〇万円二本、一等は一万円五本、二等一〇〇〇円、三等一〇〇円、四等一〇円となっており、このほか賞品ではA賞自転車二本、B賞組立タンス五本、C賞着尺銘仙五本、D賞紳士靴、E賞チャック、F賞カタン糸、G賞ドロップとなっていた。この宝くじは二十三年、二十四年、二十五年と続けられたが、増林村では一・二・三等、あるいはA・B・C賞の当選者はでなかった。
ともかく独立校舎のないまま新制中学を発足させた越谷地域各町村は、はじめ小学校の校舎を借りうけて授業を開始したが、このうち越ヶ谷中学校は二十三年九月に、旧東武実業学校校舎に移転した。また大沢と出羽の中学校は二十四年十一月に新校舎の第一期工事を終えて移転、荻島中学校は二十五年三月、蒲生中学校は同年五月、桜井中学校は二十六年六月それぞれ新校舎に移った。しかし増林と大相模中学校は三十二年三月の統合中学東中学校の設立まで小学校の敷地内に同居した。