この間越谷地域の小学校は、いずれも戦時中から校舎の修復が放置されていたため、その老朽化は甚しく、越ヶ谷小学校のごとく「校舎につつかい棒をして倒壊を防いだり」(埼玉新聞二十二年七月八日付)しているところが多かった。しかも「中学校の割込みである。教室はない。机・腰掛もない。運動場はせまくてどうにもならない。なお重大問題は教師の不足である。でもどうやら物置きや昇降口の教室への改造、机腰掛も大昔の古物を持ち出し、三人掛で間に合はせ、どうやら青空教室だけはまぬがれて各町村とも、小・中一つ垣根の中で」(『越谷市教育のあゆみ』)という状況であった。
ことに越ヶ谷小学校では、雨漏りなどの校舎破損がひどかったため、町民からの特別寄付を求め、総額二五万円の費用で校舎の大修繕工事を施工した。ところが二十四年三月二十日の火災によって校舎一六〇坪、講堂七七坪が焼失した。この損害は五〇〇万円にのぼった。このため越ヶ谷小学校では焼残った一一教室で二部教授を続けたが、二十五年木造平屋一二教室の新校舎が落成し、二部教授は解消された。