戦後の越ヶ谷高等女学校

841~844 / 1164ページ

終戦後の越ヶ谷高等女学校は、昭和二十一年二月の勅令にもとづいて、四年制から五年制の女学校に改められた。ついで二十二年三月学校教育法が制定され、同年四月から六・三制が施行されたが、新制の高等学校は一年の期間がおかれて二十三年四月一日に施行された。このとき越ヶ谷高等女学校は、改めてその設置の認可をうけ、越ヶ谷女子高等学校と名称を変えて、三年制による後期中等学校に位置づけられた。さらにこの年四年制による定時制高等学校が併設され、同年九月十日から授業が開始された。また翌二十四年四月一日には、男女共学制度が採り入れられ、校名は越ヶ谷高等学校と改称された。

 ちなみに二十五年十一月現在の職員数は、教諭・講師・事務員・校医を含め全日制が三二名、定時制が五五名であり、生徒数は全日制男子七八名、女子三〇〇名、定時制では男子五三五名、女子一〇六名であった。また二十六年十二月、越ヶ谷・吉川・草加・松伏領の各町村中学校長は、越ヶ谷高等学校の校舎増築を越ヶ谷町長に陳情した。これによると、

  越ヶ谷高校の定員は一学年百五拾名、学校定員数四百五拾名の現状では、越ヶ谷・吉川・草加を中心とする三十ヶ町村に亘る地域社会の要望を充たし得ざる実状にあります。越ヶ谷高校志願者数は、昭和二十五年度に於て百八十名、昭和廿六年度は二百三十名を数えて、昭和二十七年度は恐らくこの数を遙かに超過するかと察せられます、(中略)然し乍ら其後に於て校舎増築を実現出来ませんと、定員増加を継続出来ませんので、越ヶ谷高校を中心とする行政支会の皆様の深い御理解御同情と御協力御支援とを賜わりませんと実現不可能の問題に立ち至るのであります。

と、行政支会の協力を訴えていた。このとき提出された生徒出身町村別数は第40表のごとくである。ともかく二十七年四月一日には、越ヶ谷高等学校の生徒定員は、一学級の増加が認可され六〇〇名となった。なお越ヶ谷高等学校の校舎の増築は二十七年秋から施工され、二十八年二月に落成した。

第40表 町村別越ヶ谷高等学校生徒数
町村名 町村名
越ヶ谷 71 15 86 百間 0 1 1
大沢 32 3 35 吉川 31 16 47
蒲生 16 8 24 松伏領 7 6 13
大和模 9 5 14 早稲田 1 1 2
川柳 3 3 6 彦成 7 4 11
出羽 8 3 11 6 0 6
大袋 9 4 13 三輪野江 10 12 22
荻島 8 6 14 杉戸 0 2 2
八条 3 2 5 幸手 0 1 1
八幡 3 3 6 金杉 1 0 1
新和 5 0 5 草加 23 1 24
新方 6 1 7 戸塚 9 1 10
桜井 7 1 8 谷塚 8 1 9
川通 3 4 7 大門 4 2 6
潮止 3 1 4 新田 2 2 4
増林 5 3 8 片山 0 1 1
武里 1 1 2 安行 4 0 4
合計 314 115 429

(昭和27年)

 この間越ヶ谷高等学校生徒の様子はどうであったろうか。たとえば『創立三十五周年記念誌』のなかの職員回想録によると、「本校は男女共学に踏みきったばかりで受入れ態勢も十分とは言えず、先生方も戦後教育界の変転の中で、一種の混迷を続けておられたといっては申訳ないが、世の中全体にそんな傾向があったのは事実であろう。ところでこうした中に迎えられた二十五年組は、幼いながらも直接戦争を体験し、敗戦による変化を目前に見て来ている。十四歳とは言え順調に育った今の世代とは異り、何か芯のある手答えが一人一人に感じとられた。生徒調に書かれた将来の志望欄に、女子が堂々と〝代議士〟と書いたのは、恐らくこの時以外には見られないだろう。戦後の混乱の渦中を泳いで行く大人たちの生き方を見ながら、かれらが一様に新しい視野を発見し大きく目を見開いて、自信をもってその方向を凝視していたように思われる」とあり、希望をもって学ぶ当時の生徒たちの姿を記している。

 また同誌に掲載の卒業生座談会の記事中、定時制生徒に関しては、「僕は二十四年入学なんです。今考えると青春のすばらしい四年間だったと思いますね。新しい学制が布かれて初めて僕等が救われたんです。定時制が布かれたのが二十四年と聞きましたから。僕は十五歳で入学しましたが、二十歳を過ぎた人がクラスの中で三分の一ほどいましたね。非常に活気があったんです。見るもの聞くものみんな新しいものばかり、相当意欲を燃して勉強した方です。東大・拓大とか明大その他へかなり入っています。〝二十歳で一年生ですか〟ええそうです。もっと過ぎた人もいました。卒業前にクラスの中で三人位結婚していました」とある。