公民館の設置

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戦後の諸制度は、連合軍総司令部の指令に基づいて施行されたものが多かったが、このなかにあって公民館設置の構想は、我が国独自の発想により文部省から提唱されたものであり、総司令部の支持もあって急速な普及をみた。

 越谷地域では、蒲生村が昭和二十四年十一月に公民館を設置して公民館活動を開始したが、他町村も追々これにならった。このうち増林村は二十七年二月に公民館の発館をみたが、同年五月には、館報『こうみん』の第一号を発刊している。このなかで、増林村初代の公民館長は、「公民館事業は社会教育であると一口に言われますが、社会教育を行う為には如何に施策を講ずべきかと云う所に困難な問題があるのではないでせうか。従来の社会教育は、個人を一色にしてしまうと云う感が強かつたようである。この結果郷土の社会教育であるべき事が忘れられて、唯観念的に国家の社会教育のように考へられて来ました」と述べており、これからの社会教育は、公民館を中心に「公聴会・討論会・対談会・懇談会などを計画的に開催して、村の政治・経済・産業・文化等、各分野について皆さんに眼を開いて戴くことが望ましいのであります」とあり、さらに青少年団体・婦人団体・PTA・産業団体などの育成強化を図る、とその公民館活動の抱負を述べている。そして公民館の役割は、「各種団体の中間に立って、郷土の画一的調和を図る媒介として役立つ」ようにしたいと語っている。

 これによると、当時の公民館は村内の各種団体を結集し、調和のとれた郷土の育成を推進させる社会教育の中心機関を目ざしていたようである。事実公民館の機構は、諸団体との連絡統合や、各部の事業を総括する総務部、講演会や読書会・講習会などを管掌する文化教育部、農地問題や品評会・共進会などを行う産業部、競技会や体育講習にあたる体育部、レクリエーションや映画会などを行う娯楽部などに分かれ広範な活動を展開させていた。たとえば二十七年度の蒲生村公民館における活動状況をみると、当年度の公民館予算は五万円、その設備は書籍一〇〇冊、幻燈機二台、庭球・卓球の一式を備え、運動に読書に活発な活動をみせている。ことに定期講座行事を重点にあげ、婦人講座・成人講座・青年講座が開かれたが、このうち婦人講座の受講者は延べ八九一人に達していた。このほか増林村では青年講座や母親学級などのほか、農産物の品評会、各種共進会、産業研究発表会をはじめ、敬老会・競技会なども行われていた。

 その後地方教育委員会の発足により、公民館活動は各町村教育委員会事業の一環に組入れられたが、昭和二十九年越谷町の成立により、従来の旧町村公民館は、各地区公民館に位置づけられた。

 ここでの行事は、たとえば三十一年度でこれをみると、成人学級・青年学級・婦人学級などのほか、体育祭・文化祭・駅伝競争・敬老会・映画会・レクリエーションなど、婦人会・青年団・体育協会と重なった活動がみられるが、それぞれ団体の強化と自主性の発揮により、この段階では公民館独自の機能は希薄になったようである。