戦後の青年団

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二十年九月に発表された「新日本建設の教育方針」により、青少年団体の組織は民主主義の新しい理念を基調とし、任意団体として再発足されたが、出羽村では二十一年三月、越ヶ谷町では同年十一月に復活をみている。このうち出羽村では翌二十二年三月、青年団結成一周年を記念して「団報」を発行したが、これによると当時の青年団活動は、未復員軍人家族や戦没者遺家族への勤労奉仕、その他犯罪防止のための夜警が主なものであった。

 ことに夜警にあたっては、団員一日交代の勤務で風雨の別なく夜中の巡回や通行者の検問にあたった。なかには、「心なき人から悪評されますが」その成果が挙らなくとも、この夜警の実行で「何らかの心の糧を得られることと思います」と団報のなかでその心情を語っている。その後出羽村の男女青年団は、二十四年三月には、青年相互の親睦・文化農村の展開、新日本の建設を目的に掲げ、男女団員は二二〇名を数えた。

 また越ヶ谷青年団は、終戦直後、「善導会」と称する不良グループが横行し、ほしいままな脅迫や暴行を働いていたのに対抗して結成されたといわれ、当時は一般人が「善導会」の横行を恐れて素人演芸会にも参加できなかったほどであったという。そこで青年団結成後団員代表は、まず善導会幹部と交渉し、(1)青年は自己の意志で善導会から脱退することができる。(2)善導会は越ヶ谷青年団に敵対行動をとらないこと、などを確約させた。その後青年団の組織が強化されていくにつれ、幅をきかせていた善導会は自然消滅した。

 また桜井村男女青年団は、二十三年四月に結成されたが、二十五年には男子一五九名、女子七八名、計二三七名の組織にふくれあがっていた。団員の年齢は一六歳から三〇歳(女子は二五歳)までで、職業別内訳では、農業二一五名、商・工業各五名、官公吏八名、学生一名、無職三名という構成であった。主な活動は文化・体育・実業・家庭に分かれており、団報も刊行されていたようである。

 ことに青年団の大きな活動分野には、当時文化祭の主催があった。たとえば二十六年に新方小学校で行われた新方村青年団主催の文化祭には、農産物品評会や花道展覧会、図書作品展覧会、素人ノド自慢大会、バザーなどがくりひろげられ、村を挙げての一大行事となっていた。さらに蒲生村青年団の二十六年度の事業としては、文化祭のほか教育に関するものとして、青年学級の開設、青少年の不良化防止、講演会・映画会の開催などを計画しており、農業に関するものとして産業の調査、副業の研究、農事視察、体育関係では体育大会の開催、社会関係では火災盗難の予防、家政関係では生活の改善、結婚の改善、和洋裁などの習得奨励などを掲げていた。

 やがて二十九年十一月、越谷町の成立により、旧町村の青年団は解消され、大同団結した越谷町青年団が発足したが、旧町村ごとの青年団は地区分団として存続し、それぞれ独自の行事を実施することもあった。ちなみに越谷総合青年団三十一年度の行事をみると、駅伝大会・映画会・講演会・講習会・野球大会・体育大会・敬老会などが催されており、別に分団ではたとえば大沢分団のごとく、卓球大会、見学旅行、文化祭、コンサート、スケート大会、サイクリング、将棋大会、ハイキング、盆踊り大会などが独自に開催されていた。