戦後の婦人会

848~849 / 1164ページ

戦時中国策の協力団体としてもっとも地道な活動を続けてきた大日本婦人会は、終戦直前国民義勇軍に統合されて解散されたが、戦後政府の働きかけにかかわらず、地域婦人会の結成機運は沈滞傾向にあった。このなかにあって荻島村では、農家の主婦が教養に無関心であるのは時代に遅れるとして、昭和二十五年四月に婦人会を結成し、公民館活動の一環として婦人学級を開いたりした。この婦人学級は農繁期を除いて毎月一回行われ、台所改善など身近かな問題にとりくんだが、参加者は一〇〇名を数え、二十九年には「住生活の改善」に寄与したとして県教育委員会から表彰を受けモデル地区に指定された。

 このほか各村でも生活改善運動に刺激されて次々と婦人会を結成していった。このうち増林村婦人会の二十八年度の活動をみると、生活改善研究座談会、料理講習会、子供会、敬老会、レクリエーション大会、未帰還者家族の慰問などが行われている。越ヶ谷町でも婦人活動の必要性が叫ばれ、二十七年七月越ヶ谷小学校で婦人会の結成準備会が開催されたが、同年九月には弥生町婦人会が結成され、つぎつぎと地域婦人会が組織されていった。その後二十九年十一月、越谷町成立により、越谷町婦人会連絡協議会が成立したが、三十年五月には協議会を発展的に解消し、連合婦人会が組織された。

 なお越谷町連合婦人会三十年度の行事をみると、スクエアダンスなどレクリエーションの講習会や政治座談会・研究会・講演会・視察旅行などのほか、越谷町や埼玉県主催の体育会・新生活会議・レクリエーション大会などに参加している。一方地区婦人会では、たとえば大相模婦人会では、婦人学級や母親学級、敬老会、健康診断、盆踊り、映画会などを催しており、大沢婦人会では公民館制度促進運動や歳末助け合い運動、七五三簡素化などの新生活運動をくりひろげるとともに、帯のしめ方講習会や衛生に関する幻燈会なども開いていた。

 このうち新生活連動に関しては、すでに二十四年二月、埼玉県教育委員会は各町村長や婦人会長宛に生活改善研究会の開催を指示していたが、当時この運動は全国的な規模で展開されていた。この推進母体は公民館を軸とした婦人会にあったが、越谷地域では婦人会の結成が遅れたため、当初は活発な活動はみられなかったようである。しかし越谷地域にも荻島村の例でみられるごとく、婦人会を中心に新生活運動が浸透した。この運動の目標は衣食住の改善にあったが、このほか貯蓄の奨励、冠婚葬祭や七五三の簡素化、節句や正月行事を新暦で行なうなどがあった。なかには結婚式の費用を節約するため荻島村のごとく、結婚式の諸道具を公民館に備えつけ、公民館で結婚式を挙げるところも現われた。