越ヶ谷町在住の学生を中心とした青年有志は、終戦後の新事態に対処し、いかに生きるべきかの問題をなげかけ、昭和二十二年一月越ヶ谷文化連盟を結成して若人たちの結集を呼びかけた。越ヶ谷町の若人たちはこの文化連盟という耳新しい会の名称にひかれ、あらゆる趣味層の人びとがこれに参加した。このため連盟にはおのずから図書部・音楽部・剣道部・ダンス部・英会話部・社会啓蒙部という部会がもたれ、それぞれ独自の活動が進められた。
このうち図書部は越ヶ谷小学校図書室の一部を借り受け、図書の寄贈を募るとともに、一般の人びとに図書室を開放した。はじめは五〇〇冊の蔵書であったがたちまち六〇〇冊を備えるまでになった。このほか図書部は読書会や講演会などを開催し好評をはくした。その後図書部の指導層が町外の思想活動に移ったため、管理者を失った図書室は閉鎖されたが、この閉鎖を遺憾とした父兄がこれを成蹊文庫と名付け図書室を連盟から引継いだ。
また剣道部では越ヶ谷小学校講堂を稽古場として多くの人びとを集めたが、総司令部からの武道禁止令により、三ヵ月の短命で解散を余儀なくされた。音楽部はレコードコンサートなどで四〇〇名からの参加者を集めるほどの盛況であったが、次第に独立した各グループに分かれ連盟から離脱していった。ダンス部は連盟の各部中もっとも多くの会員を集めたが、適当なダンス会場を求めることができなかったため、これも同じくグループごとに分かれ、それぞれ会場を求めて連盟から離れていった。やがてグループごとに求めたダンス会場は、ダンス教室といった営業機関に変っていくのである。こうして自発的に結成された越ヶ谷文化連盟は、二十三年から二十四年にかけて各部とも解消するに至った。