越ヶ谷町立図書館の成立

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越ヶ谷町の有志は二十三年四月、文化連盟図書部から閉鎖された図書室を引継ぎ、私設文庫「成蹊文庫」を開設したが、翌二十四年三月、越ヶ谷小学校の火災で図書室も焼失してしまった。しかし焼失校舎の新設後、校長室の隣室を図書室にあてて、成蹊文庫を再発足させた。

 その後町民の要望をうけた越ヶ谷町長は、図書館法にもとづき図書館設置条例と図書館協議会条例を設置、二十八年九月総工費六九万余円で木造モルタル二階建二六坪余の図書館を越ヶ谷小学校敷地内に建設した。そして埼玉県立図書館の協力を得て、同館越ヶ谷分館を併置して同年十一月三日開館した。当時の蔵書は成蹊文庫からの引継ぎ書や寄贈書などで七六三冊を備え、二名の職員が配置された。翌二十九年には利用者の便宜をはかり職員一名を増員して夜の九時まで開館時間を延長した。さらに七月からは蔵書の館外貸出しを実施したが、当時の利用者は一日平均四〇人ほどであった。翌二十九年十一月、越谷町が成立し越ヶ谷町立図書館は越谷町立図書館として新たな発足をみたが、このときの蔵書はすでに二三〇〇冊を数え利用者は一日平均四八人であった。

 また図書館の利用者は、図書館を中心とした越谷文化の推進を望み、館外活動の一環として文化友の会を組織したが、三十年十一月新装なった越谷町役場で盛大な発会式を行なった。友の会の入会資格は中学生以上二五歳までの青年男女であったが、会員は一〇〇余名を数え、事務局を図書館に設けて演劇会・映画会・幻燈会・講演会・講習会・読書会、さらにはコーラスやレコードコンサートなど多彩な行事を展開させた。ことに三十一年八月、越ヶ谷小学校で開催された東京教育大学教授家永三郎の講演「日本の現代史について」などと長崎・広島の原爆記念映画「生きていて良かった」の映画会では、参加者二〇〇余名を数える盛会であった。

 この友の会は間もなく図書館機構の充実により、図書館の直接運営に移されたが、このうち読書会は市民読書会として、コーラスグループは図書館から離れたがよしきり合唱団として、それぞれ発展をみた。このように図書館活動の増大にともない館内の狭隘が訴えられ、三十一年十月建坪五坪の閲覧室と、同五坪の書庫が増築された。当時の利用者は一日平均七〇人、蔵書は三五八五冊を数えた。同図書館が越ヶ谷小学校敷地内から新築の福祉会館三階に移ったのは四十年十月のことであった。

越谷町立図書館(昭和33年ごろ)