生活保護法の施行

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昭和二十一年二月、連合軍総司令部は、「無差別平等」「国家責任による生活保護」などの原則を政府に示し、国家の責任による社会福祉の実施を指令した。政府はこれに基づき、生活保護法その他これに関する諸法令を制定、同年十月同法などの施行を告示した。この法令によると、保護の種類は、生活扶助・医療扶助・助産扶助・生業扶助・葬祭扶助に分かれているが、保護の対象者は最低生活のできない者と規程され、その原因や事情の如何にかかわらず、国が平等にこれを保護する責務があるとされている。ただし生活能力のあるにかかわらず、勤労の意志がない者、素行不良の者、それに扶養義務者がいる者などは、保護の対象から除外されている。

 またこれら保護者に対する扶助の規準額は、生活保護で町村の場合一ヵ月当り一人二円五〇銭、二人家族四円三〇銭、三人五円三〇銭、四人六円二〇銭、五人七円一〇銭、六人以上は一人増すごとに九〇銭、葬祭扶助は同じく町村の場合五〇〇円、助産扶助は一三五円、生業扶助は一〇〇〇円となっている。そしてこれら扶助額の負担比率は、原則として国庫負担が八割、県負担が一割、市町村負担が一割であるが、例外として国が八割、県が二割を負担することもあると定められている。

 ちなみに同二十一年九月、増林村が埼葛地方事務所へ報告した要保護者数は、三二世帯一〇七名である。このうち生活困窮者は一九世帯六三名、戦災者一〇世帯三五名、引揚者三世帯九名であった。これに対し審査の結果同年十月から十二月までの被保護者数は、三五世帯一二一名、このうち生活困窮者は一七世帯五三名、戦災者一七世帯六三名、引揚者一世帯五名であり、東京などから疎開した戦災者が報告よりその数を増していた。また昭和二十三年四月から九月までの増林村保護実施状況をみると、生活扶助一八〇世帯五三九人に増大し、この扶助総額は九万六一一八円であった。別にこのほか葬祭扶助の適用をうけた者が一世帯で五〇〇円、医療扶助をうけた者が一人で支給額は五四一〇円であった。

 なお被保護者の家計状況は、二十二年当時平均収入の月額は四〇三五円、同支出は六〇九〇円で二〇〇〇円余の赤字となっている。これに対し同年一月から同六月までに支給された保護費総額は、五万三一七二円であった。このように保護をうけなければならなかった世帯のなかには、戦争の被害者である戦没遺家族や外地引揚者、あるいは戦災者などが多く含まれていた。たとえば桜井村二十五年現在の要保護母子家庭は、二五世帯を数えたが、このうち戦没遺族は八世帯である。なお母子家庭は離婚などによるものも多かったが、母子二人の世帯が一二家族でもっとも多い。なかには母子五人の母子家庭もいた。

 また外地引揚者のうち、定まった住居を持たない者は、二十四年五月でも大相模村で寺院に収容されている二世帯八名、増林村では、公民館に収容されている一世帯四名、寺院に収容されている一世帯三名などを数えた。このほか桜井村引揚者のうち、当時自家居住者は二世帯五名、借家は一世帯一人、間借りは二世帯三名となっていた。