二十二年五月三日の新憲法の施行にともない、従来神社や寺院に無償で貸付けられていた国有境内地や保管林の無償譲与が実施された。このためには大蔵大臣に所定の手続きをとる必要があり、神主や氏子、僧侶や檀徒は、村や町の歴史とともに存続した神社・寺院を、みずからの手に取戻すため必要な書類などを整えてこの申請を行なった。つまりこのとき神社や寺院は、国の保護や監督から解放され、その境内地などの所有をみずからのものとして公的に認められたわけである。ちなみにこのときの境内地無償譲与の経過を、南荻島稲荷神社の記念碑でみると次のごとくである。
昭和二十三年四月二十八日書類完成、大蔵大臣に申請をなしたる処、現地調査ありて同年(翌カ)一月二十五日付指令第四二八一号を以て無償譲与の許可を得たり、仍つて同年(翌カ)三月三十一日所有権移転登記を済せ、茲に境地千百五拾九坪一合七勺、並に立林七三石余当社の所有となる。顧りみるに、太平洋戦争終熄後、聯合国最高司令官の発せられたる覚書に基き、世相一変し、国民道徳の枢軸たる神社信仰思想も、動(やや)もすれば常軌を逸せんとし、村治円満統一を阻害せんとし、洵(まこと)に前途憂惧に堪へざる世に直面したるも、当時の神社関係者よく宮司に協力、氏神護持につとめ、神社財産として無償確保し得たるは、御神徳の然らしむるものなりと深く感銘致し、茲に顛末由緒(てんまつゆいしよ)を録し、加護に応(こた)へ後世に伝ふ
このほか寺社の敷地ならびに境内地の譲与をうけた社寺を、たとえば出羽村でみてみると、七左衛門観照院の国有雑種地八六六坪、四町野迎摂院の国有雑種地一一〇四坪、七左衛門寺裏の稲荷神社国有地三六二坪、同細沼の稲荷神社国有地四七九坪、越巻丸の内の稲荷神社国有地二四六坪、同中新田の稲荷神社国有地一九〇坪、大間野の三社大神社国有地三五一坪、同正光院国有地一八二坪、同光福院国有地七六五坪となっている。
またこの無償譲与を申請するにあたり、登記上の誤りを発見し、問題をおこした寺社も珍しくなかった。たとえば大沢町の弘福院では、境内墓地の一部四畝九歩が、登記上まだ町有となっているのを発見し、速やかにこれを国有地に書替えるよう大沢町長に請願している。この請願書によると、
右墓地ハ、墓碑ニヨリ弐百六十年前ヨリ埋葬シ来レリ、元弘福院境内ノ壱部ナリシガ明治七年地所名称区別及明治八年社寺境内外区画取調ノ達示ニヨリ、大沢町有トナリタルモノナラン、一般町民始メ檀徒モ弘福院墓地ト信ジ居タルニ、大正十二年東武鉄道ニ一部買収セラルヽニ際シ、土地台帳ニ町有トナリ居ルコトヲ発見シ、墓地ヲ弘福院名義ニ変更方請願シタルガ、其ママトナリ今日ニ至レリ、境内地は明治維新ニ際シ上地ヲ命ゼラレ国有地トナリタリ
とある。つまり多くの社寺は、明治維新に際し、境内地などは上地となって国有地に繰入れられたが、そのままで無償貸与が許されていたので、登記上も余り気にかけていなかったのであろう。