宗教法人

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一三宗五六派に及んだ仏教集団は、戦時中統制されて二八宗派に統合された。終戦後宗教の国家統制が外されて宗教法人法が施行されると、それまで禁圧されていた修験系寺院や法華系新興宗教が進出し、一時は二五〇に及ぶ諸宗派が成立した。なかでも法華系統の霊友会や立正佼正会などが強力な組織をもって各地に進出をみせたが、同系統の創価学会も昭和二十五年以降急速にその勢力をひろげた。

 一方教派神道では、終戦直後、璽光尊や踊る神様、あるいは戦前からの大本教や御嶽教などが台頭し、一時は宗教ラッシュの状態を現出させた。このうち越谷地域では、新興宗教教団の目立った動きはみられなかったが、宗教法人として届けられた教派別、あるいは宗派別の宗教法人を、昭和三十四年現在の埼玉県でみてみると、仏教寺院では、真言宗系八宗派で二一四一ヵ寺、天台宗系では修験宗を含めて三宗派で一八〇ヵ寺、禅宗系では六宗派で六三一ヵ寺、浄土宗系では、時宗の一三ヵ寺を含めて五宗派で一七八ヵ寺、日蓮宗系では七宗派で九四ヵ寺である。このうち日蓮宗は七三ヵ寺のうち、日蓮正宗(創価学会)は当時二ヵ寺であった。このほか諸宗派は六六ヵ寺となっている。

 同じく昭和三十四年現在の埼玉県下の神社では、二〇二四社を数えたが、このうち神社本庁に属した社が二〇〇七社、神道一之宮教本庁に属した社が一五社、両派に属さない単立が二社で、神社本庁に属した社が圧倒的な数となっている。キリスト教団では日本基督教団をはじめ一五教団五六教会、教派神道では二一教団四六〇教会を数える。このうち天理教会が三九二教会で多数を占め、概して埼玉県では既存の宗教集団が、そのまま法人に位置づけられたようである。

 越谷地域の宗教法人では、第41表で示したごとくであるが、久伊豆・香取・稲荷などの種別があっても、そのほとんどは神社本庁に属した。寺院では、真言宗が豊山派と智山派に大きく分立しているが、真言宗寺院の多いのは従来と変りない。次に浄土宗系寺院、その他は曹洞宗寺院二ヵ寺となっているが、どの宗派にも属さない単立が三ヵ寺でている。特徴としては、戦前にみられなかった単立をはじめ、修験寺が七左衛門に一ヵ寺、鬼子母神堂教会と称する日蓮宗系寺院が南荻島に一ヵ寺みられるが、これは宗教法人令の所産であったろう。教派神道では、そのほとんどが天理教によって占められているが、このなかには戦前からのものが多く含まれており、越谷地域の宗教分布は、この時点では大きな変化はなかったといえよう。

第41表 越谷地域宗教法人 (昭和34年)
(1) 寺院
所在地 寺院名 宗派 所在地 寺院名 宗派
越ヶ谷 天嶽寺 浄土 蒲生 光明院 真言豊山
大間野 正光院 地蔵院
登戸 報土院 瓦曾根 照蓮院
見田方 浄音寺 東方 観音寺
北川崎 聖徳寺 西方 大聖寺
大松 清浄院 別府 金剛寺
浄閑寺 増森 宝正院
船波 無量院 中島 正福寺
大泊 安国寺 東小林 東福寺
慈眼寺 花田 西円寺
平方 林西寺 弥十郎 観照寺
西楽寺 大吉 徳蔵寺
崇源寺 向畑 花向院
西新井 西教院 大房 浄光寺
大沢 弘福院 新義真言 袋山 持福院
照光院 真言智山 大林 大林寺
光明院 麦塚 智泉院
霊明教会 南荻島 玉泉院
大間野 光福寺 七左衛門 三明院 修験
蒲生 清蔵院 増林 林泉寺 単立
三ノ宮 一乗院 清伝寺
大竹 東養寺 浄泉院
伊原 成就院 勝林寺 曹洞
四丁野 迎摂院 真言豊山 野島 浄山寺
七左衛門 観照院 南荻島 鬼子母神堂教会 日蓮
 (2) 神社
所在地 神社名 所在地 神社名 所在地 神社名
越ヶ谷 久伊豆神社 平方 稲荷神社 越ヶ谷 八幡神社
東方 増林 増森神社 伊原
伊原 香取神社 越ヶ谷 市神明社
袋山 大沢 浅間神社
蒲生 大松 平方
砂原 船渡 北川崎 川崎神社
野島 大吉 千疋 伊南理神社
小曾川 向畑 四条 日枝神社
越巻 稲荷神社(2) 三ノ宮 西方
瓦曾根 恩間 見田方 八坂神社
七左衛門 〃 (2) 大林 南百 水神社
大沢 東小林 麦塚 女体神社
大松 上間久里 大竹 大竹神社
弥十郎 下間久里 大道 大道神社
大房 平方 〃 (2) 東小林 神明社
恩間新田 大泊 平方 鹿島神社
登戸 増林 護郷神社 西新井 石神井神社
大里 大間野 三社大神社 南荻島 五社稲荷神社
 (3) 教派神道
所在地 教会名
大沢 大沢分教会 天理教
東方 神明分教会
越ヶ谷 北武分教会
大間野 大間野分教会
七左衛門 四丁野分教会
横仕込 本泰久分教会
麦塚 麦塚分教会
増林 本千間分教会
 (4) キリスト教
所在地 教会名
越ヶ谷 越谷教会

 戦後これら既設の宗教集団は、国家の統制から外されたため、神社と氏子との関係はもとより、各寺院も檀徒に対する強制力を失い、そのうえ法人として新たな租税の対象とされたので、経済的な苦窮に立たされた。こうして寺社の経営は大きな転換期を迎え、寺院は保育園や幼稚園の経営に、神社は結婚式場などに、そのほか役所や学校に勤める神官や僧侶も少なくなかった。

 このなかにあって、連合軍占領下の日本宗教界にとって、キリスト教はもっとも進出しやすい条件に恵まれていた。ことに連合軍総司令官マッカーサーは、熱心なクリスチャンであったので、事ごとにキリスト教を擁護し、豊富な資産や物資を援助したり、あるいは海外の宣教師を招く便宜をはかったりした。このため日本は、「結局キリスト教国になるであろう」と述べる人もいたほどである。

 それでは明治十七年以来の古い歴史と伝統をもった日本基督教団越ヶ谷教会における戦後の動向はどのようなものであったろうか。終戦直後の昭和二十年八月二十一日、越ヶ谷御殿町に本拠をもつ越ヶ谷教会では、新しい時代に即応し、活発な布教活動を再開するため、日曜学校や夜の集会など、戦時中中止されていた諸集会を復活、幼稚園も再開することをきめた。ことに家庭伝道集会は活発で、信者宅での集会が連続して開かれたが、同年十月二十八日には、荻島飛行場米車駐屯部隊を訪れ、お茶の接待にあたるなど、米軍との接触にも積極的であった。さらに二十一年五月には賀川豊彦を招いて大講演会を催したが、参集者は二六〇名、このうち一三六名がキリスト教への信仰を決心したという。ついで同年六月三日から幼稚園を再開したが、園児は定員の一〇〇名を突破した。

 また越谷教会では、二十一年八月から農村巡回伝道を始めたが、二十二年五月からは教会所属の三名の牧師が、毎日朝・昼・夜の三回付近の農村を自転車でかけ廻り、農村伝道に意欲をみせた。その主な集会場は、増林中学校・大沢中学校・蒲生中学校・越ヶ谷実業学校・越ヶ谷高等女学校、その他であったが、いずこも数百名の村民が集り、『越谷教会七十年史』には、「全く今にも日本の全農村がキリスト教化するのではないかと思わせた」と述べられている。

 こうした積極的な伝道活動の結果、昭和十九年、同二十年の受洗者(洗礼)年間三名であったのに対し、二十一年度は二〇名、二十二年度が九名、二十三年度が一六名と多数のキリスト教徒が誕生した。また日曜学校の生徒出席数は、一日当り平均昭和十九年度が三〇名であったのに対し、二十一年度が同一〇五名、二十二年度が同一〇三名に激増した。そのほか祈祷会・夕拝会などの集会や、婦人会・青年会の出席者数も、昭和二十年の終戦を境に飛躍的な増加を示した。さらに教会維持の献金額も、昭和十九年度が七九〇〇円であったのに対し、二十一年度が一万八五〇〇円、二十二年度が六万四五二六円と増大した。