戦後我が国の地方制度は、新憲法の制定と新自治法の成立によって抜本的な改革が行なわれた。この自治法に規定された基本原則は、地方自治を中央集権的統制からはずすことにあり、教育や消防なども地方自治体に移管されたが、同時に自治体の首長や議員は、すべて地域住民の直接選挙によって選ぶという民主的な地方自治の確立が図られたのである。しかし教育や消防、あるいは警察など、国から移管された諸事業を遂行するためには、小規模な自治体の財政では多くの困難がともなった。しかも我が国経済の自立化を促されたドッヂライン(昭和二十四年のはじめ占領軍総司令部経済顧問ドッヂが、日本のインフレーションを抑制し経済自立を図るために指示した経済処理方針のこと)の実施から、公共事業費の大幅削減や地方配付税の半減措置が講じられたため、地方自治体の財政はいよいよ苦境に立たされた。加えるにインフレーションの止めどない昂進により、いずこの市町村も大幅な赤字財政をかかえるにいたり、新しい地方自治法の実施は、かえって自治体の桎梏ともなって自治体の弱体化を招く懸念すら生じるにいたった。
このように自治体の危機が進行した昭和二十四年九月、アメリカのシャウプ博士を団長とした経済使節団が来日し、地方自治体の窮乏状態を、財政・税制の面から調査したが、その結果税制の改革や行政事務の再配分について政府に勧告を行なった。この〝シャウプ勧告〟のなかで使節団は、「市町村が学校・警察その他の活動を、独立して維持することが困難な場合には、比較的隣接した地域と合併することを奨励すべきである」と述べていた。政府はこの勧告に基づき、町村合併の促進に手を染めることになり、全国的な合併促進運動を進めたすえ、二十八年八月の第一六回国会で「町村合併促進法」が制定された。
これにともない政府は「今後三年間に、現在の町村数九六二二を三分の一に減らすことを目途にして、強力にその推進に当たる方針」を決定した。この政府の計画によると、昭和三十一年九月末日までに、全国で人口八〇〇〇人に満たない八二四五町村を三三七三町村に縮少する目標を掲げ、そのためには六二四九町村をなくする方針であったが、この年度別計画は第42表のごとくである。政府はこの目標達成の準備として次のごとき運動方針を達した。
(1)各都道府県においては、おおむね二十七年度中に管下町村の実態調査を終了させること。
(2)各都道府県においては、十一月一日までに町村合併促進審議会を設置し、昭和二十九年三月末日までに、各都道府県別町村合併計画を作成すること。
(3)政府・都道府県・市町村及び関係機関等は、昭和二十八年度中は町村合併に関する啓発宣伝その他合併の準備に力を注ぎ、昭和二十九年度中に本格的な合併を実施するものとすること、となっている。
年度 | 減少町村数 | 目標率 |
---|---|---|
% | ||
28年度 | 937 | 15 |
29年度 | 4,062 | 65 |
30年度 | 625 | 10 |
31年(9月) | 625 | 10 |
計 | 6,249 | 100 |