新方村の動向

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新方領町村による合併が白紙に戻された大袋村では、にわかに越ヶ谷町との合併が大勢を占めるようになり、既定方針である桜井・新方三ヵ村による合併は難しい局面を迎えるにいたった。そこで新方村では二十九年七月八日、第一回緊急協議会を開いて合併に関する善後策を協議した(新方村『町村合併協議会綴』)。席上協議会委員は、三ヵ村の合併は確実性があるかと質問したが、これに対し村長は、三ヵ村合併が合理的であり最適と考えるが、しかし三ヵ村のうち大袋村が越ヶ谷への大同団結を指向しているので、今のところ何とも言えないが、三村の合併に今後とも努力してみる、と答えている。この答えに対し、委員の大半は三村合併の望みが薄くなった以上、大袋村を除外し松伏領村(現松伏町松伏)との合併に切替えるのが妥当であるとの意見と、越ヶ谷町への合併が良いとの意見に分かれ、はげしい論議がかわされたが、村長は三村合併の実現に努めたいとの意向を固執し、結論がでないままに散会した。

 ついで第二回緊急協議会が開かれたが、席上村長は、大袋村が部落常会で住民の合併意向を投票で求めた結果、越ヶ谷合併が多数を占めたとの連絡が入ったと報告し、三村合併は白紙に戻ったことを伝えた。その後協議に入ったが、一部の委員から、桜井村も越ヶ谷合併に傾いてきたので、新方村もこれに歩調を合せ、越ヶ谷合併に進むほかないとの意見が提起された。また一部の委員からは、古利根川の架橋実現や野菜出荷の便、あるいは小学校の位置などを考えると、松伏領村との合併がもっとも合理的であり、ことに松伏領村と新方村は純農村の立場から協調して村を盛り立てていけるだろうとの意見がだされた。この両論の対立ははげしく、たとえば松伏領村との合併論に対しては、越ヶ谷周辺の純農村が八ヵ村も合併するので、町と村の差異を論ずるのは意味がない、しかも生産物の出荷も東京市場を相手とするにはむしろ越ヶ谷の方が便利であると反論している。なかには吉川町との合併を考える委員もいたが、大勢は松伏領と越ヶ谷に分れたので、両意見の賛成投票が行われた。結果は投票総数二九票のうち越ヶ谷合併が一五票、松伏領合併が一四票となった。そこで最終結論は七月二十六日の部落常会での住民投票にゆだねられることになったが、その間協議会で熟議を重ねることに決した。

 ついで第三回協議会が開かれたが、合併両論に対する論議がたたかわされたうえ、賛否の投票に入った。このときは協議委員三九名中三七名が越ヶ谷合併案に賛成票を投じ、協議会は事実上越ヶ谷合併に傾いた。続いて七月二十五日、住民投票を明日にひかえて協議会は大詰を迎えた。この日午前中に開かれた第五回協議会では、主に越ヶ谷合併を前提とした諸問題が討議されたが、席上越ヶ谷の合併成立後、市制が布かれるのかとの質問に、村長は農村部では市制に反対である。越ヶ谷合併で農村が占める割合は二対八であるので、おそらく市制は絶対施行されないだろう、と答えていた。このほか古利根川橋梁の実現は可能であるかとの討議が重ねられ再度投票が行われた。このときは総投票数四八票のうち越ヶ谷合併二三票、松伏合併二〇、どちらでもよいが五という結果であった。