さらに午後の第六回協議会では、越ヶ谷合併の場合は、議員が越ヶ谷に独占される恐れがないか、また議長が越ヶ谷から出た場合新方村は行政の対象から外される恐れがないか、さらに地域が広大なため、端々の行政がおろそかにされないか、などの意見がだされた。ことに町と村とでは生活の基盤が異なっており、両者の意見が食い違った場合、どうしても町に有利な方向に動く、税金も商人が多いので、税徴収の根拠が明瞭でないのに反し、農村では耕作反別で容赦なく税が課せられるので、農村部が損である。しかも越ヶ谷・大沢はものの考え方の点でも農村とは異なる。したがって松伏領との合併が望ましい、との越ヶ谷合併反対論が強くだされた。こうして再び賛否の投票が行われたが、越ヶ谷合併二〇票、松伏領合併二五票、どちらでもよいが三票で、午前の投票結果とは逆転する始末であった。続いて夜に開かれた協議会では、遠くの親類よりは近くの他人、松伏領との合併がよいとの意見が大勢を占め、投票の結果松伏領合併三五票、越ヶ谷合併七票、どちらでもよいが一票という結果を示した。
翌二十六日、各部落の代表者を加え、七〇名によって構成された最後の協議会が船渡の無量院で開かれた。席上越ヶ谷合併に反対する感情的なやじや暴論などが飛び出したが、部落常会による住民投票の結果が協議会に伝えられた。この住民投票では、総数二四九票のうち越ヶ谷合併賛成が一五七票で全体の六三%、松伏領合併が八一で三二・五%、どちらでもよいが八票、わからないが三票で、越ヶ谷合併が大勢を占めたのである。
ここにおいて同協議会では、改めて賛否の投票をすることを避け、満場一致という形で越ヶ谷合併を決定した。しかし一部の代表者から新方村のうち大松・川崎・大杉の住民は、どうしても松伏領合併を固執しているので、越ヶ谷合併の説得にあたってもらいたいとの発言もあり、これですべてが終ったという訳ではなかったようである。以上二転三転、はげしい論戦をたたかわせた新方村の町村合併協議会は、越ヶ谷合併に落着して解散することになった。ここで同協議会における越ヶ谷合併賛成論の大要を、史料(新方村『町村合併協議会綴』)によってみると、
(1)合併体制は、町二、村八の割合なので、その勢力上、農村は不利とはならない。
(2)合併に際しては、大袋村と桜井村の協力が絶対必要である。
(3)もしこの合併が不成功となっても、新方村・大袋村・桜井村の三ヵ村は別に対策が講ぜられる。
(4)松伏領村との合併は、村の差が開き過ぎているので円滑な運営は不可能である。
(5)松伏領村の発展は、東方に重点が置かれているので、将来新方村は取残されて離れ島になる恐れがある。
というものである。一方松伏領合併賛成論をみると、
(1)純農村同士の結合で、理想的な合併と考えられる。
(2)松伏領村には新方村に近い理想的な小学校がある。
(3)古利根川に橋が架せられる。
(4)越ヶ谷合併では、地域が広大すぎ、中央の水は潤沢となるが下流まではとどかない。
(5)町の人びとは口八丁で、農村の人とは性格が合わない。
ことなどを理由に挙げていた。ともかく越ヶ谷合併を決定した新方村ほか二ヵ村は、昭和二十九年七月二十九日村民に対し、
この度新方領三ヵ村は、永久に固い団結を誓って越ヶ谷町を中心とする大同合併をすることに致しました。皆様のご協力を感謝し、併せて今後の結束を御願い致します。
との回覧を廻し、ここに三ヵ村合併促進協議会が発展的解消したことを報告した。こうして越ヶ谷町を中心とした町村合併は軌道に乗り、同年八月一日、改めて「越ヶ谷町外九町村合併促進協議会」が発足した。
なお、松伏領村は、吉川町や旭町との合併を進めていたが話し合いがつかず、結局昭和三十年四月二十日、松伏領村と金杉村が合体し、三十一年四月十五日、その村名を松伏村と改めた。