県の審議会による町村合併試案では、川柳村は越ヶ谷に合併する計画であることが示されていた。しかし川柳村のおよその有力者は越ヶ谷との合併を望まなかったようであり、江戸時代から歴史的な因縁で結ばれている大相模と蒲生を一団とした三ヵ村の合併を進めようとした。すなわち昭和二十九年二月九日、川柳・大相模・蒲生の村長は蒲生村役場に会合し、三ヵ村合同で歩調を揃える約定をとりかわしている。さらに五月十三日にも、三ヵ村は単独行動はとらないとの約束をかわし、川柳村町村合併促進委員会を設置して三ヵ村合併の具体的協議に入ろうとした。
ところがその頃大相模・蒲生の両村は、すでに越ヶ谷合併を内定し、越ヶ谷合併の話を進めていた。このため六月五日に開かれた川柳村協議会では、大相模・蒲生が越ヶ谷合併に傾いた以上、川柳村は独自な立場で合併の方向を打出すほかないとの結論に達した。このとき委員のなかには、草加町への合併を希望する住民が多いので、草加町の受入れ態勢を打診すべきであるとの意見が出された。そこでにわかに同協議会は、草加町ならびに草加合併を決定した谷塚町と新田村を訪問し、合併の話し合いを進めることを決議した。しかしこの草加合併の意向は必ずしも全委員の合意によるものでなく、大相模・蒲生とともに越ヶ谷合併を主張する委員もあった。
このため協議会の意見は草加合併、越ヶ谷合併に大きく分れた。そこで村役場では六月十日、緊急協議会を開いて一挙に両意見の統一を図ろうとした。このときの討議では、
(1)同一町村内においては、東武線をひかえた西方地域が先に発展するのが常識であり、最東方に位置する川柳村は不利になる。
(2)従来の行政その他の関係から越ヶ谷合併が有利である。
(3)越ヶ谷では本村の合併を前提にして、すでに準備を進めている。
との理由から、越ヶ谷合併を主張する委員もあったが、草加町合併が大勢を占めた。そこで協議会では、草加合併を前提とした部落ごとによる賛否の結果を同月十四日までに報告することを決して、この日の協議会は散会した。この部落別賛否の報告は、川柳村一四部落のうち一二部落の賛成報告があったが、伊原と上谷は報告書の提出を拒否した。
ついで六月十八日、臨時村議会が召集され、議案のうち「南埼玉郡川柳村と、北足立郡草加町・谷塚町及新田村と対等合併の件」について議員による賛否の投票が行われた。この結果は草加合併一二票、越ヶ谷合併三票、保留一票となって草加町合併が決定された。ここにおいて川柳村町村合併促進協議会は発展的に解消され、同年七月四日改めて「草加町外三ヶ町村合併促進協議会」が発足した(川柳村『町村合併促進協議会綴』)。