ところが、草加町合併に反対する一部村民は、住民の意志を無視して合併を進めているとし、埼玉県議会総務委員会に請願書を提出して、草加合併を阻止しようと図った。請願書を受理した総務委員会では、七月三十日、県委員による現地調査の実施を行なったが、この当日には、伊原を中心とした反対派の数十人は、「草加合併絶対反対」の小旗やむしろ旗を押し立てて、委員調査中の現地に参集する騒ぎもあった。さらに九月五日にも反対派はダットサン一台、三輪車二台に分乗、街の辻々で街頭演説を行なうなど、反対派住民の活動はますますはげしさを加えた。
こうした騒ぎの続いている九月十六日、大字麦塚において町村合併に対する住民投票が行われたが、総投票数七八票中、越ヶ谷合併が五五票、草加合併が二三票という結果となり、麦塚は事実上伊原・上谷とともに草加合併反対派に回った。この間村役場では協定書の作成など、草加町との合併手続きを進めていたが、反対派の勢力を無視することができず、昭和三十年一月一日の草加合併予定日を、四月一日に延期するのやむなきに至ったが、しかしこの四月一日の合併も不可能になった。ここにおいて川柳村では同年六月、村長・議長・副議長の連署によって、草加合併の経過を述べた陳情書を埼玉県に提出し、県による善処方を要請した。この陳情書の内容は、次に掲げるごとくである。
町村合併促進法の制定された当初に於ては、住民一般の意向は漠然としたもの乍ら、純農村の建設にあつたのであります。爾後各地に於て合併の実績が上るにつれ、各地に市街地を中心とする合併が行われる傾向が現われるに及び、隣接町村に於ても町を中心とする合併の気運が生じた為、本村に於ては結局越ヶ谷町か、或は草加町かの二合併案を取上げる情勢に立到つたのであります。(中略)
六月十日の委員会に於ては、越ヶ谷案・草加案の二案に関し、あらゆる角度から検討した結果、将来の交通・財政・教育・文化等の向上性より、東京都の門戸草加町との合併がより住民に与える福祉が大であるとする委員が圧倒的多数を占めたので、委員会は草加町合併の結論を出したのであります。(中略)
議会に於ては、草加地区合併案を議決(賛成一二、反対三)し、次で七月四日以後、草加町外三ヶ町村合併協議会を置き、対等合併による新町建設計画の協議を行い、極めて順調に進捗して行つたのであります。而し、前記意志表示を示さなかつた三部落の中より、草加町合併に反対し、合併を阻止しようとする情勢が現われ、住民の大多数の意志を無視し、議会の議決を無視し、あらゆる反対的行動をとり、村長・議長、更には関係町村長等の懇談による納得策も功を奏せず、一方村民の大多数の合併賛成者は、草加合併の阻止されることを恐れ、数次にわたり村長に陳情するに至つたのであります。然し本村川柳村としては、本村内の障害により、草加地区の昭和三十年一月一日の合併が遅延する恐れあることを感じ、川柳村の合併を昭和三十年四月一日とし、その間鋭意村民の意向の円満なる一致を見出すことにしたのであります。しかし四月一日の合併は、草加地区の合併促進協議会の意向により、合併条件はあくまで当初の対等合併を条件として合併すると言ふ事を確約したのであります。
その後本村に於ては、所謂住民の反対派は、議員の賛成派を、住民の賛成派は議員の反対派を夫々解職しようとする請求を出すに至つたので、住民の一部有志が賛成・反対の両派の仲介斡旋に当り、鋭意努力したのでありますが、之も亦功を奏せず、遂に投票を行ふに至つたのであります。その結果は賛成派の勝利に終り、依然賛成・反対の勢力分野は草加町合併の賛成・反対の分野と同数を示したのであります。その後に於ては、草加町合併賛成者は、合併促進の意気に燃え、陳情すること益々多くなり、議会に於てもこれ以上合併を遷延する事は、大多数の住民の意志を無視する事となり、更には行政の事務は渋滞し、却つて住民の福祉を害するものと考へ、草加町議会に謀り、本村に於ては本年三月二十三日、草加町に於ては三月二十四日、夫々合併の議決をなし、三月二十六日関係書類を添へて申請したのであります。而し乍ら、期日の切迫した為、県議会の会期の都合により、遂に上程されず今日に至つたのであります。
以上本村の草加町合併の経緯と村内の情況の一端を申述べたのでありますが、本村の合併をこれ以上遷延致す事は、大多数の村民の意志を無視し、不幸を与える結果となります。(中略)此の点充分御賢察下されまして、川柳村と草加町との合併に対し、格別なる御詮議を賜り、一日も速かに許可せられますことを、茲に謹しみて陳情致す次第であります。
これによると、川柳村では草加町への合併をめぐり、賛成・反対両派の抗争がはげしく、それぞれの議員の解職請求や、両派の度重なる陳情騒ぎで収拾できない混乱が続いていたことがわかる。