越谷町の合併申請

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町村合併にあたっては、二転三転の混乱した経過を辿りながらも、二十九年九月には、川柳村を除いた各町村の協定が成立した。そこで同年十月一日、越ヶ谷町など二町八ヵ村は、同年十一月三日を期して「越谷町」を設置する旨の申請書を埼玉県知事に提出した。この申請書のうち、合併理由については、

  越ヶ谷町外九町村は、総面積五八・四四平方粁、人口四万二二四四人にして南北一一・四粁、東西八粁、中心地より南北六粁、東西四粁の範囲内に関係町村が囲じようし、市街地は往時日光街道の宿駅として江戸へ往来する人馬で殷賑をきわめたが、維新後は当地域社会における政治・経済・教育・文化の中心として発展し、現在東武鉄道越ヶ谷駅を基点にして、金町・千住・岩槻・古河・吉川・野田・安行・浦和方面へ通ずるバス網がひろがり、関係十ヵ町村は相互に密接不可離の関係に置かれしかも、東京都心まで四十分にて到達することができ、おのづから東京近郊の田園都市たる形態を具えるに至つた。

  したがつて越ヶ谷町を中心とした二町八ヵ村の大同団結により、類型的な生活経済圏の基盤の上に、合理的な広域行政を確立し、強力な財政力を確保し、これによつて交通網の完成、土地改良事業をはじめとする農業経営の振興、工場誘致、住宅建設等による商工業の振興、六・三制の完成など、教育文化の振興、上水道・下水道等衛生施設の整備等々、農村地帯と市街地との均衡的施策を樹立推進することは、関係町村民の福祉を画期的に増進する所以である。よつてここに地方自治の本旨に法り、越ヶ谷町外九ヵ町村の大同団結によつて越谷町を建設しようとするものである。

と述べている。また新町名選定の理由としては、越ヶ谷町は歴史的にも古い地名であり、さらに越ヶ谷町は周辺地域の政治・経済の中心でもあった。したがって隣接町村においても外部的には古くから越ヶ谷と呼ぶのが便宜でこれを用いていることが多かった。この後の新町名選定にあたっても、別に新らしい町名とするよりも、「越谷」とするのが適当であるとの説が圧倒的に多かった。なお新町名は「越ヶ谷」の「ヶ」を除いた「越谷」に定まったが、他に熊谷などの例もあり、不当なものとは考えられないとしている。