越谷町の発足

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こうして昭和二十九年十一月三日、新しい越谷町が発足し、越ヶ谷高等学校で関係者参集のもとに盛大な開庁式が挙行された。この日の新聞報道では〝大越谷町今日発足〟との見出しで、

  越谷町は菊薫る文化の日、今日三日めでたく誕生した。越ヶ谷町・大沢町・大相模村・蒲生村・出羽村・荻島村・大袋村・増林村・新方村・桜井村など二町八ヵ村が大同合併したもので、東西八キロ南北十一キロ、面積五十五平方キロ、人口四万四千五百九十五名という大きな町になつた。

  昔から〝草加越ヶ谷千住の先よ〟と歌に謳われた旧日光街道東武鉄道の沿線で、産業交通上重要な町である。古来文化に恵まれた管内に名所旧跡も決して少なくない。江戸時代俳文学者として有名な越ヶ谷吾山―会田吾山(江戸で検校になった)はこの地方が生んだ代表的な人物で、また国学者平田篤胤も越ヶ谷へ住んで大いにわが国文学に貢献した。越ヶ谷の久伊豆神社、大相模の不動尊、荻島村の子育地蔵、新方村の太子堂、蒲生村の清蔵院なども有名なものである。元来越ヶ谷は、南埼南部の中心地なので、各種の行政機関がある。すなわち税務署、土木工営所、農業試験場、農林省作報調査所、食糧検査所、簡易裁判所、検察庁、法務局などの官公庁が集まつている。

  交通の面においては、北葛二合半領の関門にもなっているので、現在東武電車一日の乗降客は、越ヶ谷、蒲生、大沢、大袋四駅で一万八千名を突破する状態、水田の面積は三千百八十四町八反歩、畑面積千三町三反歩(農林省調査)で、いかに農産物が豊富であるかも想像できよう。合併以前の越ヶ谷町・大沢町は南埼における商工業の中心であり、特に大沢町は、同方面唯一の指定地(赤線区域)がある。

   特産品 現在町の特産品としてまず第一に上げられるものには、〝越ヶ谷養鶏〟である。養鶏はここ数年間真にめざましい発達をした。戦後アメリカ進駐軍の需要によつてこの町付近の養鶏業者は急激に専業者に転換し、現在越ヶ谷周辺で成鶏二十万羽、一日十万個の卵を生産するといわれるから驚嘆に値する。養鶏にかんする限り今日では最早愛知県に引けを取らない。越ヶ谷養鶏の卵は、デパートで一個について一円は他より高い、品質が良いからである。他府県ものを断然凌駕している。アメリカ式バタリー養鶏法の採用と需用地東京への近接、また飼料を手近かに得られる点が越ヶ谷養鶏を短日時にかくも全国的にのし上げた原因であつた。

   第二に 藁工品がある。藁工品の数量は、昭和二十八年度藁工品検査所の調べでは、縄二十二万千五百七十一貫、莚九十万九千百四十枚、カマス類四万三千枚、合計百一七万三千七百十一枚貫を生産している。年額にして八千万円になる。農家は藁工品が米麦に次ぐ収入の者であり、最近売行不振から生産数量はやゝ落ちているが、重要な特産品である。だから京横地区の工場が景気が挽回して需要が起きれば、埼玉もの―越ヶ谷産の藁工品は、最先に荷造り用、包装用として引張り凧になるはずのものなのである。

   名物御猟場 以上文化・産業・交通の面で誇る越ヶ谷に、最後にもう一つ誇るべきものがある。それは大袋にある宮内庁のご猟場だ。冬季鴨場に集まる鴨は、毎年三、四万羽を下らず、これが鴨猟は、終戦後外国使臣接待の唯一最上のものとされてきた。日光の美を解さない外人でも、鴨場へ来て一度鴨猟の愉快さを味わうと、ワンダフル、ワンダフルと眼を細めて喜び、帰国後の大きな土産話にするということである。

  人口四万五千名、わが国で町として二番目に大きい新生越谷町は、市制施行は時日の問題、明日の希望に燃える問題である。町役場は中央庁舎が狭隘なので、早急に予算八百万円で新庁舎を建築することになつている。

と、越谷町現勢の一端を詳細に報じている。そして役場機構は旧越ヶ谷町長大塚伴鹿を町長職務執行者として、以下吏員一六七名で構成されたことを報じていた。また別な報道では、「良識に結ぶ隣保親善の華」として、この大合併を「関係町村指導者たちの、公平にして傲らざる、そしていつに変らぬ親愛の情と揺がざる良識とが」成功に導いた基盤であるとして、これを高く評価したものもあった。

 ついで同年十二月、合併後初めての越谷町長選が行われたが、町長職務執行者大塚伴鹿が投票多数で初代越谷町長に就任した。

 なお越谷町の新庁舎は、翌三十年九月に落成したが、新聞の報道によると、「東武沿線の合併町村のトップを切って、本春工事予算八百五十余万円で駅前柳田地区に新築、(中略)明るい能率的な県下一の町役場である」とこれを評している。さらに町村合併後、一般町民から寄せられた図案のなかから越谷町の町章が選ばれ、三十年一月から町章が使われるようになった。

町役場庁舎
越谷町(市)章

 また同年十一月三日、草加町川柳地区のうち伊原など三部落が草加町から分離して、越谷町に編入となったのは前述のとおりである。