越谷市の誕生

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こうして越谷町では住民による大きな反対もなく、十一月三日市制を施行し、県下で二二番目の市となった。この間の状況を、新聞の報道によってみると、十月二十七日付の毎日新聞では〝誕生近い草加市と越谷市〟との見出しで、越谷に関しては〝明るい田園都市、越谷卵早産三二九〇万個〟とし

  人口四万八三一八人、戸数八三九〇戸、面積六〇・三九平方キロ、旧越ヶ谷町が二十九年十一月三日、近隣十ヵ町村と合併して「越谷町」として発足、四周年目にさらに飛躍して市制を施行することになる。

  四号国道の別名日光街道が市街地のまん中を走り、交通は浦和―越谷の国際興業バスを除いて東武一辺倒、このため東武鉄道でも集団住宅建設を促進、これに並行して県営と住宅建設の機運が高まっている。工場建設もポツポツあるが、たんぼの埋立が容易でないという不便さからさっぱり進展せず、町当局が計画した業態別職業の約四〇%を占める農業も、産米のほか換金副業として野菜栽培、フレームによる草花栽培など農業経営改善がすすみ、大袋地区は桃梅裁培で千三百万円の実収をあげている。

  養鶏約二十三万羽による鶏卵出荷は、年額三億三千二百万円、数にして約三千二百九十万個という全国屈指の生産額で、都内はじめ駐留軍におさめられ、業者からは〝越谷卵〟として知られている。

  狩猟期ともなれば、外国使臣のカモ猟で名高い宮内庁カモ場があり、早くもシベリアから冬告鳥のカモ群が飛来している。(中略)越谷水郷のハイキングコースは、武蔵野の名残りをとどめ、梅・桃が咲き出す春ともなれば、美しい田園風景を描き出し、ハイカーの目を楽しませてくれる。

と、当時の越谷町の産業や景観などを記している。また同二十八日の埼玉新聞では〝でかした越谷町、千六百八十八万円の黒字土産に、三日市制施行〟との見出しで、

  来月三日、市制施行の越谷町は、三十二年度一般会計および特別会計の出納閉鎖に伴う決算を行った結果、特別会計を含めて総額千六百八十八万八千八百六十七円の黒字決算となり、関係者は鼻高々である。

  黒字をだすことができた最も大きな原因としては、三十二年度の町民税徴収成績がよかったこと、過去五年間の滞納を一挙に解消したこと、非生産的な冗費の節減につとめたことなどがあげられる。同町の三十二年度の課税額は、八千三百五十万三千二百五十一円だったが、これに対し約九二%の七千六百七十九万四百七十四円を実際に徴収するというすばらしい成績をあげた。また二十七年度から三十一年度までの五年間の滞納分の整理に力コブを入れた結果、三十二年度は一挙に約八百四十万六千円を徴収することに成功し、町財政は余裕しゃくしゃくで黒字をはじきだすことができた。

  一般会計では歳入額一億五千三百十一万余円に対し、歳出一億三千九百五十四万円余、差引千三百五十六万円(このうち翌年度事業繰越二百十一万余円)で純黒字は千百四十四万余円となった。また特別会計の国保は、歳入額三千百八十七万余円、歳出二千七百三十三万余円、差引四百五十四万余円の繰越金を計上したが、これも一般会計同様国保税の納入が九〇%を越えたので、国からの補助金が増額された一方、療養給付費が減少したため、国保運営のフトコロは温かかった。さらに上水道会計でも、歳入五百八十四万余円、歳出五百三十九万余円で四十一万七千余円の繰越金を計上している。

  三十二年度になって徴税成績がぐっとよくなったのは、町長はじめ役場の幹部が出席して町政をくわしく説明する町政座談会を一昨年からひきつづいて行ってきたこと、土木・教育・福祉関係など町民の生活と直接結びついたこまかい事業をたんねんにやってきたことが、町民の納税意欲をたかめたからだと、町当局ではみている。

とあり、主に越谷町の財政についてこれを記し、この結果を生んだ町役場の努力を高く評価していた。