上水道の開発

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市制施行前の昭和三十年十二月、越谷町長は国に対し、越谷町に上水道敷設の工事認可申請を行なった。この上水道敷設の事由としては、「従来越谷町の給水は、各家ごとに、または共同使用で浅井戸を掘り、手押ポンプ等を用いて取水するきわめて原始的な給水方法がとられていた。もとより越谷町は平均海抜五メートルの沖積平野に位置し、元荒川や古利根川など諸河川に囲まれた土地であるので、水には恵まれているが、そのわりには良井に乏しい。最低一〇〇尺から三五〇尺の深さの井戸であっても、検査の結果は、細菌や化学物質が標準以上に含有していて、飲料水に適さないところが多い。しかも町の発展と文化の向上にともない、水の使用量が増大するにしたがい、その水質も悪化をたどり、伝染病などの発生で町民に不安をもたらしている。

 したがって総工費九四〇〇万円の予算により、三ヵ年の継続事業として、越谷町大字大沢(久伊豆神社裏)に二ヵ所の深井戸を掘り、地下水を汲み上げ浄水場を設けて一万五〇〇〇人に給水を行いたい」としている。

 しかしこの上水道工事の計画は、起債の件で自治庁が難色を示したためその着工は遅れ、三十二年九月、ようやく起債が認められ同年十月に着工した。水道工事は急ピッチで進められ、翌三十三年五月には早くも完成、越ヶ谷・大沢・蒲生の一部、一万数千人に給水がはじめられた。

 ついで三十四年には大袋地区大竹に簡易水道が設置され、大袋地区の一部四五〇〇人の給水がはじめられたが、三十五年には越谷浄水場の第一期拡張事業が進められ、二万六三〇〇人の給水が可能になった。

 また三十六年十二月には、越谷・松伏水道組合による増林浄水場が完成し、増林・新方・大相模ならびに松伏村の給水がはじめられた。

 その後越谷・松伏水道組合、ならびに越谷水道事業は、給水需要の増大に対処し、それぞれ拡張事業を進めたが、同じ給水区内にそれぞれ両事業団が併置されているのは、水道事業の合理化や能率化に支障があると判断され、四十四年三月、両者合議のうえ統合することになった。ここに現在の越谷・松伏水道企業団が新たに発足したわけである。この間、越谷水道事業は第二期拡張事業にともない四十一年二月に南越谷へ南部浄水場を敷設、四十四年十二月には下間久里に北部浄水場を設けるなど、水道施設の拡充をはかり、四十五年には人口一二万人の給水が可能となった。

 なお第3表にみられるごとく、給水人口は年々膨張しているが、これにともない地下水の汲み上げが増大したため、地盤沈下の現象が派生した。このため表流水の利用が計画にのぼったが、これが一部実現をみたのは四十九年五月であった。すなわち埼玉県で開発された江戸川からの取水である。この県水の一部導入にともない、同年九月、大袋の簡易水道施設が閉鎖されているが、四十九年四月には築比地浄水場が完成、現在この五ヵ所の浄水場に一部県水が導入され、越谷ならびに松伏のほとんどの地域に給水が行われている。

第3表 水道給水人口の推移
年次 給水人口 摘要
万人
33 約1.4 越谷浄水場完成
34 1.8 大袋簡易水道完成
36 3.5 増林浄水場完成
41 7.0 南部(南越谷)浄水場完成
44 13.9 北部(下間久里)浄水場完成
47 18.5
49 20.5 築比地浄水場完成