越谷市では昭和四十年頃から市民の要望に応じ、県立高等学校の誘致を計画、校舎を桜井地区大泊に内定し、水田約四万八〇〇〇平方メートルの敷地を東武鉄道から一億三〇〇〇余万円で買収、四十三年四月の開校を目途に準備を進めた。ところがこの学校敷地は市の最北端にあたることなどを理由に一部の反対があって難行し、開校目標の四十三年四月を過ぎて、同年八月にようやく市議会で議決される始末であった。ついで翌四十四年三月の県議会で新校の設立が議決され、同年四月大袋地区袋山の北中学校で開校式と入学式が挙行された。当時の生徒定員は二八八人であり、校名は越谷北高等学校と名付けられた。翌四十五年四月桜井地区大泊に鉄筋の新校舎が完成、生徒数は三三九人に増員された。四十六年二月特別教室が竣功したが、同年四月、生徒数は三二二人七学級であった。また、越谷南高等学校が四十九年四月市内川柳に開校され、市内の高等学校は県立三校を数えることになった。