新方領用悪水路土地改良区は、西北を元荒川、東南を古利根川に囲まれた勾配およそ三〇〇〇分の一、地下水位〇・六メートル内至一・五メートル程度の低平な地域である。支配面積三六〇〇余ヘクタール、関係農家三七〇〇余戸のうち、およそ半分を越谷市に属する大袋、荻島、桜井、大沢、新方の旧町村が占めている。
灌漑用水は元荒川水系五圦樋、古利根川水系一六圦樋より取水しているが、越谷市域の水田をうるおしているのは、元荒川水系の須賀元圦と古利根川水系の東圦(桜井)、上川原圦・無量院圦・新松川圦・小樋口圦・差輪圦・徳蔵寺圦・宮の下圦・源蔵圦(新方)、槐戸圦・一本圦・正八圦・箱圦・立野圦・宮田圦・会の川圦(大沢)である。
元荒川より取水する用水は、当時としては水質水温とも良好で水量も豊富であったが、古利根川水系の水は、旬日旱天にも用水が枯渇し、年々旱魃被害を受ける状況であった。しかし残水については、各小排水路より千間堀に集水され、増林の中島地先から中川に自然放流されるため、とくに支障はなかった。
ところで、新方領土地改良区は、他の越谷地域の用水地区はもちろん、中川水系全域に比較して、地形に影響された特色のある用水区を形成している。たとえば、周囲を元荒川と古利根川の微高地状の自然堤防に囲まれた典型的なバックマーシュ(皿状低地)として、まとまりのある用水区単位を構成していること、両河川の水を取り入れたたくさんの小用水路が中央の低地に向けて集中し、一般にみられるような紡錘型の用排水路形態をとらないこと、小用水区ごとに独立して河川から直接取水するため、葛西、八条、末田等の狭長な灌漑地区特有の下流部における水不足間題が比較的すくなかったことなどである。
配水の時期および方法は、苗代水として五月一日前後に用水の一部を取り入れ、裏作の収穫に支障のない六月十日前後に、所要全水量を取水した。したがって幹線用水路沿いに苗代を設け、小用水路には植付期に分水するものであった。なお、旱魃時に用水不足を生じた場合は、琵琶溜井と八条用水の番水を強化して被害を防止する手筈になっていた。
八条用水路土地改良区は、北側を元荒川に東側を中川に接する支配水田面積一〇五〇余ヘクタールの地域である。越谷市の農家は、区域内二二〇〇余戸の農家のうち大相模、蒲生両地区の八九〇余戸であった。地勢は北から南に向って八五〇〇分の一の緩傾斜をなしている。地下水位は一般に高く、マイナス六〇センチメートルから二〇センチメートル程度であった。
地域の用水源は北接する葛西用水路瓦曾根堰に依存し、八条用水樋管から取水する。五二本の分水路を派出し、用水量は豊富である。排水は北側は元荒川へ、東側は中川へ、西側は綾瀬川へそれぞれ自然排出する。一部用排兼用箇所もあったが、排出には支障なく、したがってそのための施設も存在しなかった。なお、八条用水樋管の完成後は、旱魃時は用水不足が生じた。このため揚水機等を使用して被害に対処する一方、瓦曾根堰より取水する葛西、四ヵ村等の水利団体と協議のうえ、番水制を実施して補給水の確保につとめた。
配水の時期および方法は、二毛作田が多かったため苗代用水として五月十日前後に用水の一部を取水し、麦、菜種、キャベツ等の収穫後、すなわち六月十五日前後に所要全水量を取入れる。当然ここでも水利条件のよい幹線付近の圃場に苗代が設けられた。なお、配水は尻切堀、屋影堀、見田方堀などの分水路によって自然灌漑された。
末田大用排水路土地改良区は元荒川、綾瀬川の両河川に挾まれた越ヶ谷、荻島、出羽の三地区および岩槻市の和土、新和両地区からなっている。配水面積一八七〇余ヘクタール(うち越谷市域一二四七ヘクタール)におよぶこの改良区の地勢は、きわめて複雑にして微地形変化に富み、西より東に向って約二五〇〇分の一、北より南に向って約五〇〇〇分の一の傾斜を示している。
本改良区の用水源は元荒川に依存し、岩槻市新和地内末田樋管より取水する。幹線用水路は途中五ヵ用水、三ヵ用水に分岐し、各所に堰を設けて水位の上昇が図られている。平常時は水量が豊富で灌漑に支障はないが、旱魃が長期にわたると下流の越谷市域内では著しい被害が生じた。また、地区内の残水は出羽堀、新川等の大小排水路を通じて綾瀬川に自然放流されるが、豪雨の際は残水が低所に集まり、同時に綾瀬川からの逆流水も加わって、下流部六〇余ヘクタールに湛冠水被害をおよぼすこともすくなくなかった。
なお、本地区も二毛作田が多かったため、四月末に苗代水を取り入れ、その後裏作の収穫をすませてから、六月末に所要全水量を取り入れ、支線用水路に配水された。用水の配分は植付、養水とも、例年番水日割表に基づいて行われた。ただし旱魃時に用水不足が生じた場合は、番水日割によらず、隣接町村から融通を受けて事態をのりきるようにしてきた。