昭和三十年、三十一年と連続して埼葛地方は深刻な水不足に見舞われた。春日部農務事務所の調査によると、三十年六月二十九日現在で約七〇〇ヘクタールが植付不能となり、また、植付を済ませた約一〇〇ヘクタールは枯死寸前の状態に陥った。
越谷市内でも花田、東小林では水不足のため東京都との話し合いの末、六月二十九日早朝から瓦曾根地先の葛西、八条両用水を三分の二閉鎖して元荒川、逆川の水位上昇をはかり、消防自動車まで繰り出して揚水したが、それでも四〇〇ヘクタールの水田は憂慮すべき状況にさらされた。この年、越谷町(当時)の第三地区だけでも、四四二ヘクタールの旱害水田に対し、バーチカルポンプ一七台(一一・九万円)と原動機三台(一五万円)を購入し、使用した揚水機二五七台、同じく原動機二五七台、消防自動車二〇台のほか、これらに要した燃料費の合計は二七・五万円に達した。
翌三十一年も日照り続きのからつゆであった。越谷地方の水田三三〇〇余ヘクタールをうるおす葛西、八条、末田・須賀などの各用水のうち、葛西用水以外の一二〇〇ヘクタールは六月中旬に田植を終えたが、葛西水系の新方、増林、大相模、川柳、蒲生の全地区と桜井の一部地区のおよそ二一〇〇ヘクタールでは、用水支派線の水位が同月二十日頃より急速に低下し、揚水機の使用もできない程に減水してしまった。このため二十二日から二十三日に予定していた田植は不可能となった。前年を上廻る水不足の事態に対して、越谷町役場(当時)産業課では市内の土木請負業者から揚水機六台を借り受け、さらに消防ポンプまで出動させて古利根川と元荒川からの揚水につとめ、辛うじて急場をしのいだ。
その後も用水不足は慢性化し、事態は一向に改善されなかった。そこで、農民たちは個人的にはバーチカルポンプの設置、組織的には番水制度の強化、他地区番水時における揚水機の台数と口径の制約(昭和三十三年、末田用水)、あるいは井堰の撤去(昭和三十七年、末田用水)などの努力を試みたが、十分の効果はあがらなかった。
埼葛、とくに越谷地方におけるこのような深刻な用水不足の原因としては、六月中の日照り続きがまずあげられるが、このほか、戦後の食料増産対策や創設自作農層を中心とする生産意欲の向上を背景にして、土地改良、なかんづく排水改良が進み用水量の増大を招いたこと、二毛作田の増加および水稲早期裁培の普及(たとえば末田須賀堰の場合、水門閉鎖日を昭和三十二年よりそれまでの四月十日から三月三十一日に繰り上げている)により、上下流とも用水需要期がかさなったため、全流域でいっせいになったこと、葛西用水(五八四ヘクタール)、羽生領用水(四九八ヘクタール)、見沼代用水(八五三ヘクタール)等をはじめ中川水系全域で五三七六ヘクタール(一九六一年現在)におよぶ陸田が造成され、その約八〇%が水田用水と競合関係を生じ、下流越谷地方の水田水稲用水の不足に拍車をかけたこと、などの点を列挙することができる。
しかも用水需要の増大に対し、利根川の河床上昇にともなう取水量の減少ならびに本川から流入した土砂の沈砂による通水能力の低下に加えて、各用水路の通水断面が広狭多様のため、広い部分に沈砂が進行し通水を著く阻害したり、末田大用水のように途中に一四ヵ所もの井堰が設けられて通水上の欠陥となっていたことなども、用水不足をさらに悪化させる原因となった。
結局、元荒川や古利根川(葛西用水)のような排水集流型河川を用水源とする越谷地方の水田にとって、用水不足と番水制度の成立は必然的な問題であり、同時に、水利体系を根幹から再編成しないかぎり、簡単には克服することのできない宿命的な地域課題であったということができる。