中川水系上流部における陸田の増加、および下流部の農地潰廃面積の増大と多数の分水施設の存在とは、同水系流域の用水配分に著しい地域的不均衡をもたらした。また、揚水機の進歩とその普及によって用水の反覆利用が拡大され、水利系統の複雑化、配水管理上の障害、排水の不良化等の問題がひきおこされた。その結果、用水の内部合理化、陸田用水の体系化、ならびに水資源の多角的利用といういわば都市と農村の両サイドの要請が高まったため、国と埼玉県は利根大堰と多目的合口連絡水路の建設を中心とする水資源の総合開発事業に着手することになった。
すなわち、利根川水系総合開発計画の一環として、水資源開発公団は行田市にある見沼代用水取入口付近に合口堰の建設を計画し、昭和三十八年から総工費二〇四億円をもって着工した。この計画ではそれぞれ独自に利根川から取水していた見沼代用水、羽生領用水、葛西用水、群馬県邑楽用水など八本の農業用水をはじめ、都市用水(上水と掃流水)用の武蔵水路などを合わせて同地点から一括取水する大事業であった。
この利根合口導水事業は、昭和四十三年に竣工をみたが、これにともなって同年から埼玉県は葛西用水路の改修にふみきった。これは葛西用水が、前述のような理由から用水事情がとくに悪いうえに、毎秒二五トンの慣行水利権をもちながら、その実一八トンの取水が精一杯で、それも漏水による水路ロスの加わった利水効率の低い用水路だったからである。事業は、用水路の両側にブロック護岸を施工したり、水路の底面をコンクリート舗装などして漏水を防ぎ、さらに一〇〇ヵ所以上もあった分水堰を三〇ヵ所程度に統廃合して、水配分の合理化をはかるものであった。
葛西用水の改修後は、下流越谷地方における同水系の用水確保は、ほぼ順調に行われるようになり、番水制度も過去の遺物となった。そのうえ、合口堰の完成以後、見沼代用水から元荒川への余水放出量が増したため、末田須賀堰を利用する新方領と末田の両土地改良区の用水事情も著しく好転するようになった。こうして、越谷地域でたったひとつ残された末田大用排水土地改良区の番水制度もほとんど形骸化してしまった。