前編でみてきたように昭和二十五年から三十年の間、越谷農業は全体としては発展基調であった。しかし、三十年以降の高度成長期に入ると、農業をめぐる条件は大きく変化してゆき、農業はしだいに崩落傾向をたどるようになる。
ここでは、まず、農業の存在条件を急速に悪化させていった都市化の進展についてのべよう。越谷の都市化進展の特徴をとらえるために、越谷の地理的位置について一瞥する。
まず、首都圏における越谷市の特徴は、「東京をめぐる近郊を対比すると、都市化が比較的早く進行したのは、西部の東京都下や南部の神奈川県であり、北部の埼玉県は東部の千葉県とともに後進的である。その要因としては、東京の中心部への交通が比較的おくれていたこと、日本の表通りである東海道メガロポリスに対して裏側の位置にあったこと、荒川などの河川が介在して都市化の浸透を妨げたことなどがあげられる」。「県南の中心は、やはり国鉄線に沿った中央部(京浜東北沿線)の発展がもっともはやく、武蔵野台地の一部を占める西部(東部東上線および西武線沿線)がこれに次ぎ、低地帯であり、東京都心への連絡にも不利であった東部の東武線沿線地域は相対的におくれていた」(昭和四十三年度越谷市委託研究報告書第一部、都市問題研究所)。このように首都圏三〇キロメートル以内の地域にあって最も後発地帯であった越谷は、それだけにより急激に都市化の波にあらわれるようになる。
すなわち、三十四~五年頃より工場の流入が急増しはじめ、つづいて三十七~八年より人口の急激な流入がはじまる。三十年以後とられてきた都市化政策の主なものを拾うと、まず三十二年九月に越谷町は町内全域が都市計画区域に指定されたが、翌年十一月の新市誕生とともに新市建設第一次五ヵ年計画の実施に入った。三十四年十月には都市計画の基本計画ができ街路網も決定され、工業用地、道路、商業用地、住宅地の開発が以後急速にすすめられる。
住宅地開発としては、三十七年から区画整理事業が着手せられ、この年北越谷地区六六・二ヘクタール、三十九年東小林地区五六・一ヘクタール、四十三年南越谷地区七三・二ヘクタール、四十四年東越谷第一、一八・三ヘクタール、同第二、二八・七ヘクタール、千間台一二四・九ヘクタールと次々に住宅地化をおしすすめている。こうした区画整理事業は一方で無秩序な宅地造成によるスラム化の防止や農地のスプロール化に一定の規制的役割を果すが、他方では人口の流入を促し、地価を引上げるなど、農業生産を困難にしてきたことは否めない。さらに四十六年に施行された「新都市計画法」にもとづく市街化区域、調査区域の設定は、さらに地価の上昇や固定資産税の増大となって、営農条件を困難にした。
この間の開発政策としては、三十八年三月より新市建設第二次五ヵ年計画に入り、また、四十三年には、乱開発、農地のスプロール化防止などのために「宅地造成協議基準」を市独自で設定したりしている。
しかし、急速に膨張する首都圏によって、先を見透した独自の開発政策はとりにくく、三十九年の都市計画法による用途地域の変更(住居地区一四九ヘクタール追加)四十三年の首都圏整備法の改正による工業団地の住宅団地への変更にみられるように国の政策に大きく左右され、事後的対応におわれがちであった。