出羽地区の農地潰廃

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これを、蒲生地区などとともに、農地潰廃のはげしい出羽地区によってみると、次のごとくである。出羽地区は、かつて水田が地目の六八%を占めていた稲作地帯であった。この地区の農地転用は、昭和三十六年頃から進行したが、四十年までの間は、毎年一〇ヘクタールの農地が転用されていた。これが四十一年以降毎年二〇ヘクタールを上まわる農地の転用が続いた。これら農地の転用は、主に第五条による転用で、住家・貸家・社宅・寮といった住宅用地、あるいは中・小の工場用地であったが、出羽地区の農家は、こうした都市化の動向に敏感に対応し、農家自身が自己の所有農地に貸家を建築して家主化する第四条転用による農地潰廃もみられた。

 このうち第四条転用の例を七左町の場合でみると、四十二年から四十五年までの三年間に、貸家業への転用が三八人から延四四回申請されている。このうち二〇人が農業従事者であり、七左町の農家が一八人、その他越谷地域居住者で、農業以外を含め五人となっている。このように四条申請による農業従事者の家主化の傾向がみられるが、この経営内容を、たとえば七左町の一農民の例でみておこう。この農民は、四十二年に三九六平方メートルの自己の水田を転用し、六〇センチメートルの土盛りをして建坪九九・一五平方メートルの三世帯が居住できる木造平屋のアパートを建てている。このアパート造成費用は、建築費が一五三万円、土地造成費が一六万円、計一六八万円であった。このうち自己資金の不足分九〇万円は、当該年度の水稲代金を担保に融資をうけて調達した。家賃は一軒あたり一万円、別に二年で更新される権利金が三万円であったので、これに投入された資金は融資をうけた利金を別にすると、およそ四年間で回収される計算であった。第四条転用によるこうした貸家の例も、おそらく当地域の平均的なものであったろう。

 ともかく農地の転用は、農地法第四条、第五条にかかわらず、水田地帯の七左町においても虫食い状態で進行したので、上の図のごとく、農村が都市に包囲された形で浸しょくが進んだ。ことに出羽地区には、中央を草加バイパス(現国道四号線)が貫通したので、出羽地区の水利系統はいちじるしく混乱をみせた。そして、耕地をバイパスで二分された農家もあり、このため農地を移動しなければならないものもあった。また住宅や工場の進出で用水路が排水路同様になったため、水稲の生育条件がゆるがせられ、耕作を放棄して地価の騰貴を待つ農家もでてきた。

七左町における農地潰廃の分布(昭和44年)

 こうした状況は、なにも出羽地区のみに限らず、当時越谷地域農家の一般的な現象であった。

 このように三十四~五年以後、越谷市の都市化は市全体をおおうようになってきており、四十二年の時点では荻島、新方、増林の三地区以外は総面積に占める宅地面積の割合が一〇%をこえるようになっている。増大の割合は東武線沿線を最大としで、しだいに周辺部におよんでいる。その中で宅地化による農地のスプロール化、宅地周辺、工場周辺の農業条件の悪化、さらには地価高騰による営農条件の悪化と農民の投機的対応などの変化が生じつつあり、それは農業に生きようとする人びととの間に大きな矛盾をひきおこしていた。