このうち養鶏は、肉用のブロイラーを合わせると、四〇万三〇〇〇余羽を数え、越谷は全国でも有数な養鶏産地であることを示している。地区別にみると増林の一九万三〇〇〇余羽を筆頭に大相模の五万六〇〇〇余羽、大袋の三万二〇〇〇余羽、越ヶ谷の二万九〇〇〇余羽という順になっている。また養豚は出羽と新方が盛んであり、乳牛も桜井・新方などにみられる。ここで越谷における養鶏事業の変化を再び四十一年五月三日付の新聞でみると、〝進む経営の拡大化、越谷の養鶏産業、年間生産額は十三億円〟との見出しで
越谷市の養鶏は、戦争中の飼料不足で一時衰退したが、二十六年頃から食糧事情の好転と経済の成長を背景に、千羽以上の飼養戸数が五十戸にふえ、採卵養鶏としての基礎ができた。現在は鶏の飼養戸数五百戸、飼養羽数(成鶏)は六十万羽に達し、ヒナを加えると百万羽になっている。鶏卵生産額は年間十二億五千万円、鶏羽数産卵量とも戦前をはるかに上廻り、最近は近代化が計られ、これまでの農家の副業養鶏から一万羽以上の企業的な大羽数飼養の専業養鶏に移行した。また百万円もする洗卵選別機や、鶏フン乾燥機を購入して労働力不足に備えている。このため同市の農産物生産額の五十%以上を占め、首都近郊としての農業の発展に大きな役割りを果している。
だが多頭飼育化に伴って、ニューカッスル病などの伝染病や、カ・ハエ・ネズミの発生、鶏フンによる悪臭など数多くの問題をかかえている。三十八年にニューカッスル病が大量発生、養鶏家は大打撃をこうむったが、その経験を生かし、ワクチンの徹底を計るなど今後の飛躍に備えている。ヒナは産卵率と飼養効率の良い白色レグホンを輸入しているため割り高で、国産ヒナの改良が急務、また最近は物価高の波にのって飼料代も高く頭が痛いようだ。
とこれを報じているが、越谷の養鶏はこのころがもっともさかんであった。
すでにのべてきたように、越谷農業は、三十年頃までは、畜産の伸びはめざましかったもののなんといっても米麦が中心で、その販売額は全販売額の六〇%近くを占めていた。この後の一五年間の変化は、まさにいちじるしい商業的農業の展開であり、需要の変化に対応した畜産、換金作物への転換が大きくおこなわれてきたといえる。