昭和二十七年、増林村に自力によって設置された公民館が発足した。これにともない増林村公民館では〝こうみん〟という雑誌を刊行した。この雑誌には増林村農民の寄稿文や学童の作文などが載せられている。このなかで〝農業委園蝶編〟との見出しで、次のごとき記事が寄せられている。
我輩の生立ちは荒山育ちよ。あの山、此の谷、あの川と、総ゆる処をとんで来た暴れん坊よ。しかし給方の花だ、此方の花だと生きんがために見付けて歩くことがなくとも、我輩には農業委園があり温室も有る故、月給草の甘い汁を戴かなくとも、まあ/\何とか暮せるよ。だから彼方此方ととんで歩いても平気さ。それに一寸、見た丈でも恐ろしいほど強そうにみえる体だ。その他の蝶々達もよけて通るね。第一月給案ばかり当にしなくとも済むので、他の蝶々達より威張って居られるよ。唯どうも時折悪いくもの巣があるので、これには我輩も引掛かって仲々脱出するには気骨がおれるよ。兎に角、此の世は我儘な我輩でも自由にとんで歩けぬ事もある。
つまりこの諷刺的な作品のなかには、農民としての誇りや自負心が強く押し出されている。また「只一介の農夫として土に親しみ、只一途に増産につき進んだ私であります一粒の米、一個の芋の増産と雖も、此食糧難の祖国再建の基盤であると信じ、拾石となるのは固より、百姓の本分である」といったものや、「吾々農民の立場は重大です。再建の道は沢山ありませうが、国民の半数を占める農民の奮起が絶対に必要であり、農村振興が何より必要であることは、何人と雖も異議のないことと思います」といったものもみられる。
さらにこれら寄稿文のなかには「食糧不足の解決は、吾々が引受けたと言いたい、又そうすべき責任があると思う、働こう、働き抜こう、働いて一日も早く祖国日本の再興を図りましよう、此信念は今も変りない」という文もみられた。すなわち農業一途に生きる農民の、将来に託した抱負や希望がここからも十分に汲みとることができるのである。
つぎにこの雑誌に掲載された小学生の作文をみてみよう。ここには〝農繁やすみ〟と題し
六月十九日から六月二十八日まで、学校は農繁やすみになりました。其の間僕はいっしょうけんめい田植えのてつだいをしました。僕の家の田植えは、六月二十五日が始まりです。僕はもううれしくてたまりません。期早くおきて少したつと、木戸の方からおはよう、おはようと大ぜいの人たちが、みのや笠をがさがさかかえこんで、はいってきました。そしてごはんをたべて苗代の方へいきました。苗代の中は人でいっぱいになりそうです。僕は皆さんが取った苗を一生けんめい、かごにつめました。そして松伏のあんちやんが田値えをする所まではこんで行き、それを田の中にほうりこみました。それを皆さんが植えてくれました。夕方になると田植えの歌が聞えてきました。僕は家に帰って台所やざしきをそうじしました。そして少したつと皆さんが帰ってきました。皆さんはそれからお酒やサイダーを飲んで元気よく帰っていきました。まもなくお風呂にはいった僕はぐっすりねてしまいました。
とある。続いて中学二年生の作品に移ろう。これは〝働く喜び〟と題したものである。
或る日曜日の午後のことである。今日も田はかんかんと照っている。私は大きい姉ちゃんと一緒に畠の堀起し作業に行った。畠は連日の照り続きで土は真白に乾いて見るからに耕し難そうであった。姉ちゃんは着くとすぐ作業に取りかかった。私は少し休んでから始めた。予想以上土は固く一振、二振、万能がはね返されそうで、堀起された土くれが仲々解けない。さすが慣れている姉ちゃんはもうずうっと先の方を耕している。ふと姉ちゃんの例の〝いくとせふるさと来て見れば……〟の朗らかな実に美しい唄声が聞えてくる。本当に姉ちゃんはいつも朗らかだ。いつの間にか自分もその声に引き入れられて鼻唄を歌いだしてしまった。歌とともに一層作業ははかどって行った。しばらくは二人は無言のままで夢中になって堀起して行った。時々涼しい秋風が自分たちのほほをなでてはすうと行ってしまう。ですからその割合に汗も出ず実によい作業日和である。ますます仕事は、はかどって作業の跡が実にきもちがよく感じられる。しばらくして二人は道端の草むらの上に腰を下して休んだ。空を見ると空はよく澄んで一層高いような気がする。赤とんぼが自分たちの前をすいすいと飛んで行く。あの広い澄んだ空、私は思わず叫んだ〝人間はいつもあの空のように明るく朗らかに、然も広い気持で何事もやろう〟と決心しました。はるか遠くの方の工場の煙突の煙が秋風にたなびいて、ゆうゆうと流れて行く、姉ちゃんが〝もう帰ろうよ〟と言った。鳥がもうそろそろねぐらへ帰って行く、二人は万能をかついで家路へ急いだ。西の空は真赤に染った夕焼空、家の近くでは弟たちがはしゃいで夕焼の歌を歌っている。熟しかけた早稲柿が夕焼空に赤く光っている。田舎の黄昏時は実に静かだ、家に帰るともうお湯は湧いていた。早速弟と二人でお湯に入った。その晩は実にご飯もおいしくいただくことが出来ました。働くことの喜びを私はつくづくと感じました。
とある。このように、美しい自然環境のなかで、大人も子供も土に生きる喜びやその生甲斐を味っていたのである。しかも
人が出た/\人が出た、供出完納の人が出た
あんまり完納が早いので、
嘸や他村でたまげたろ
金が出た/\金が出た
供出完納の金が出た
あんまり奨励金が高いので
嘸や完納者もたまげたろ
といった供出替歌や
お前百まで 私しや百余まで
共に奨励金の這入るまで
百まで出してもまだまだ残る
残る人こそ本百姓
といった都々逸が作られるほど、人びとは農民としてのほこりと気特の余裕をもっていたのである。このように農村部の人びとは、純粋な農民として土に生き、農に徹しようとしていたのは、すくなくとも昭和二十七年頃までの越谷農村のいつわらざる実情であったろう。一〇年先の農村の変化は、おそらく当時誰しもが予想しなかったであろう。