離農現象の進行

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ところが工場の進出などで土地ブームが芽生えだしてから、農家の人びとの考え方にも、急速に変化がみえだした。この間の事情は、昭和三十七年二月五日付の新聞報道が、端的にこれを示している。すなわち〝農業をきらう青年たち、将来の農家経営にもヒビ〟という見出しで

  三十七年度の同市高校卒業予定者数は、男女合計で二百六十一人、このうち進学希望二十六人、就職希望二百二十一人、家事従事六人、その他八人となっている。中卒者の方は卒業予定者千二百七十七人のうち進学希望五百九十九人、就職希望四百五十二人、その他二百二十六人、就職希望者はいずれも地元を敬遠、東京都内を希望、同市に進出してきた工場には求人の十分の一程度しか希望者がない。高卒者(男子)に例をとれば、家事従事者十三人のうち、わずか三人しか農業を希望していない実情で、工場や土地ブームにわく同市の蔭にかくれた〝悲劇〟の一面をのぞかせている。

  4Hクラブの研修会でも、農業をしたいと思っても、まわりの水田が売られ工場が建っていくのをみると、農業の機械化と一口にいっても至難なことで、政治の貧困さを痛感し、農業から離れざるを得ないという意見が多かった。またそこで一人の青年は、反当り二百万円で土地を買いにくるものがあったが、四日ばかりたつと二百四十万円という値がついた。これでは土地にしがみついて農業なんかやるより、サラリーマンになって自由な生活をした方がよいと思うと述べている。こうした例は、同市蒲生で二、三日前青年団と婦人会で話し合いをしたさいにも、農家の主婦が〝ひとりむすこが勤めにでたいといい、農家には嫁がこない〟と悩みを述べていたのにも通じる。さらに成人式の時、農業の盛んだった同市新方地区からは、ことしは四十二人の成人者しか出席せず、それを上回る数の成人者が東京都内などに転出していることがわかった。

 さらに当時の埼玉新聞は「同市青年団員千人のうち、農家出身は七割だが、農業希望はその二割と、農業労働力の減少、そして笛吹けど踊らずといった地元工場と、同市の租界化を示しているようだ」といっている。また同年行われた埼玉大学の農村調査では、越谷は工場進出が無計画に進められたので、中小の下請工場が多く、農地の転用が虫食い的になった。このため農道が悪化し、汚水が田に流れこむ、用排水が不良になるなどの事態が起きている。農家の労働力についても、越谷は老齢化と女子化の現象がいちじるしい。農業以外で働く者が一戸あたり平均一、二人である。しかも農家に対するアンケート調査では、工場誘致に賛成したものが、実に五六%に達している、と報告している。もはや越谷農村は大きな転換期を迎えていたのである。