土地ブーム

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こうした農業労働力の他産業への流出や、兼業農家の急増に対処し、越谷市では三十七年四月、商品的農業生産の確立を図り、関係市町村に園芸振興協議会の設立を呼びかけ、農業の保護育成に乗りだそうとしたりした。しかし農家人口の流出や兼業農家の増加はその後ますます増大し、四十年九月の埼玉県統計事務所の発表では、出かせぎや給与などによる農業外所得の農家経済に占める割合は、平均三〇・四%にも達し、これが農家経営を支える大きな柱となっている。一方農業収益は飼料や肥料それに農機具などの値上りから下向線を辿っているが、ことに消費生活の年ごとの都市化は農家経営を圧迫する要因である。このうち農家支出の増加率が、もっともはげしいのは、進学率の上昇を反映して教育費が最高を示し、つぎが飲食費・被服費・交際費の順になっていると、これを報じている。

 このほか新聞の報道では、農作業の臨時雇傭賃金が労働力不足を反映して上昇の一途を辿っているが、これも農家の悩みの種であるといっている。しかも四十五年になると、政府は生産調整の名のもとに、稲作の減反政策を掲げて農家人口の縮少をはかった。このため離農現象はいよいよ拍車がかけられ、水田などを転用する農家が増大した。この結果、土地ブームに乗って土地を売却した農民が、所得のベストテンに入る現象が続いた。たとえば、昭和四十五年五月二日付の新聞では、〝土地成金がズラリ〟という見出しで、埼玉県下の四十四年度高額所得者番付を報じているが、上位九割以上が土地売却による譲渡所得者であるといっている。このうち春日部税務署管内の上位一〇位までのなかには、越谷市登戸の農家が二名、越ヶ谷町の地主が一名、大沢の農家が一名、計四名が含まれている。

 これらは市街地のなかの宅地造成による譲渡所得者であったが、市街地から離れた農民にとっても、土地の売却は魅力あるものであったし、またこれを希望するほど追いつめられていたようである。この典型的な例が荻島地区の西新井にみられる。すなわち四十四年一月七日付の新聞には〝農業じゃ食えぬ、都市化を望む寒村〟との見出しで、大要次のごとくこれを報じていた。

  市の中心部から川口寄りへ三キロほど離れた水田単作の純農村地帯、交通が不便で都市化の波が及んでいない、いわば真空地帯である。農家百三十八戸のうち百戸が兼業で、一戸当りの平均農地は一ヘクタール余り、大半の農家が出かせぎしているという。いまのところ土地ブームの恩恵を受けている市街地付近の農家と違って農地は安い、三・三平方メートル当り三、四千円がやっと、昔ながらのカヤぶき屋根が目立って残っている。〝首都圏の寒村〟もちろん調整区域に指定されるのは確実。この付近は市街化から取残されるだろう。十年や二十年くらいだめかなあー、こんな危機感が農家の間にしみわたっていった。三・三平方メートル当り十万円というべらぼうな高値でポンポンと農地を売払っている市街地農家がうらめしかったわけだ。

  たまたま県住宅供給公社が同市に大規模な宅地を造成する構想を進めていた。大熊さんらは市を通じて同公社と交渉に乗り出した。昨年六月ごろになって三・三平方メートル当り一万五千円で売るということで、ほぼ話合いがついた。関係農家は百十戸、買収予定面積は二十二ヘクタール、一ヘクタールもひっかかる農家もあったが、代替地を求めるという線で了解した。

  ところが同六月定例市議会で、調整区域に予定されるところなのに宅地開発するなどけしからんと、社会・公明党など四派から提出された決議が採択され、市議会内部でも問題化した。このため買収交渉はいったん中断したが、大熊さんはあきらめず、市や同公社へ嘆願を繰返した。気の早い農家は、新築するため家をこわしたり、バインダー、カラーテレビなどを買入れてしまった。農地を売れると思っていたからやったのに……早く金をもらえるように交渉してくれ、と大熊きんはハッパをかけられた。代替地を買ったのに金を払えない農家、予定していた結婚式を延期した農家も出て、てんやわんやの騒ぎになった。

  十一月末大熊さんらの熱心な交渉で、当初の予定のほぼ半分の十二・三ヘクタールがまず売却されることになった。最近合計五億五千万円を越える地代が関係農家八十六戸へころがり込んだという。一戸当り二百万円から二千万円くらいまで、いま西新井地区の農家は新築計画などで鼻息荒いが、これでこの地区の農家もどうやら格好がついた感じだね、おれたちは土地ブームの恩恵を受けられなかったのですから。

と、これを報じていた。