従来の越谷の工業

967~969 / 1164ページ

越谷においては、旧来、工業としては家内工業的な煎餅加工や玩具製造ならびに農機具修理製造業などが主なものであった。昭和期に機械工場が建設されたが立地条件の悪さから数年で閉鎖したという話もある。第二次大戦に入り、軍需工場が数軒操業したが、これらも小規模なものであった。東京が空襲をうけるようになり、疎開者が急増すると、それにともないこれらの人びとの中から雑多な工業がもちこまれ、製麺、被服、木工、製油、玩具、タンス、金属加工業などがもたらされたといわれている。

 戦後の復興をおえ、「高度成長」に入る前の時期においても、基本的には、こうした零細な家内工業が越谷工業の主なものであった。たとえば昭和二十九年の場合を第22表でみると、工場数は二四〇、従業員は一〇四二人で一工場平均四・三人、従業員三人以下の工場数が一九五で工場総数の八一・三%を占め、一〇〇人以上の規模のものは一つもないというような状況であった。業種別にみると、桐箱を中心とする木材製品工業が一一六工場で工場総数の四八・三%で最も多く、ついでひな人形を含むその他工業が一五・四%で家具工業を合わせると旧来の工業部門が七四・六%と大部分を占めていることがわかる。また、業種も少なく、化学、石油・石炭製品、皮革、鉄鋼、電気、機械工業などは存在していない。

第22表 昭和29年の工場の構成
工場数従業員数
総数2401,042
食料品工業864
紡織工業14180
織物製品製造業6107
製材及び木製品製造業116199
家具及び建具製造業2640
紙及び紙製品製造業352
印刷及び出版業317
化学工業
石油,石炭製品製造業
ゴム工業2117
皮革工業
土石及びガラス工業120
金属工業
金属製品製造業612
機械工業1293
電気機械器具製造業
運輸機械器具製造業19
精密,光学,医療及び理化学機械器具製造業424
その他の製造業37108

 旧来からの工業部門では、たとえばタンス組合、ダルマ組合、雛人形組合など零細な製造業者が組合組織を形成していた。大都市近郊にありながら、この時期において、このように工業が未発展であった理由としては、東武線沿線が水田地帯で山林や畑地が少ないという悪い立地条件があげられる。

市内のだるま産業

 こうした中で、住民の過半数をしめる農民の間では、農家の家内副業、および農村工業としてムシロや縄などのワラ加工が盛んにおこなわれ、東京方面に出荷され、農家経済の中で大きな位置を占めていた。たとえば、昭和二十六年六月のワラ加工品の値上がりを報じた『埼玉新聞』の記事は、「越ヶ谷、吉川方面の特産品ワラ加工品は最近農家が農繁期に入り副業生産に力を入れていられなくなったので生産数量はガタ落ちになった。その上各仲買業者が在庫品をねらって東京、横浜方面の需要家筋から注文が殺倒しているので値段は上り気味である。……例年のことではあるが品薄は今後も更に激しくなると見られている」とのべている。ワラ加工の盛況が十分伺われる。

 このワラ加工品の生産数量は二十八年度ワラ工品検査所の調べではナワ二二万一五七一貫、ムシロ九〇万九一四〇枚、カマス類四万三〇〇〇枚、年額にして当時八〇万円になり、農家によってはワラ加工品が米麦につぐ収入になっていたという。しかし、このワラ加工は三十年代に入ると急速に衰退していった模様である。

 以上のような状況はせいぜいのところ昭和三十年頃までである。三十年代に入ると「高度成長」政策が導入され、工業と農業、都市と農村の格差が顕在化するにつれて、越谷においても、工場誘致、都市化がすすめられるようになる。