工場進出のはじまり

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昭和二十九年十一月に隣接一〇ヵ町村が合併し越谷町が誕生すると、翌三十年二月には新町建設計画が着手された。この中には工場誘致や住宅施設の準備も盛こまれ、大工場誘致による町発展が志向されている。そして町当局による工場誘致運動が展開され、三十一年七月にはこの運動の第一号としてライター工場の誘致が本決りとなった。『埼玉新聞』は、これについて「役場当局の説明によると、工場は東京浅草橋の某ライター製造工場でそのうちダイカスト工場が越谷町蒲生の変電所付近に建設されるもので、計画によると敷地は二千八百坪、建坪は工場、事務所十三棟で約九百八十坪、従業員約三百人でオートメーション・システムによる本格的な工場となる」と詳しく報道している。ここには町当局の大きな期待がこめられていることがうかがえる。

 さらに『新町建設計画書』(二十九年)の工業振興計画によると、「農家経営の面からみても小規模農家の労働力は商工業方面に流れ出て兼業農家が年々増加し、農村二、三男対策の面からも、又、町の収入財源の面から考えても工業の振興は将来町発展の重要な役割を持つものであるので凡ゆる振興策を考究して下記の通り推進する」とし、工業立地条件の整備計画として、「武蔵野線の関係、或は新町建設計画に基く町道の新設、元荒川改修残土利用による埋立てその他、工場敷地として可能性のある地区住民の協力を求め逐次整備する」とし、工場誘致計画として、「地元受入に対する協議会なるものを組織し、県工業課の指導の下関係機関の協力を得、全町挙げて優秀工場の誘致に努力する」とし、工業用水整備計画として、排水溝の整備による農作物被害の防止に万全の措置を講ずるとしている。

 当時の町の財政難、農業、非農業従事者の所得格差の増大、農家の兼業化の進行と、農村二、三男問題の顕在化の中にあって、工業振興こそが地域住民の生活をひきあげ、町財政を豊かにし、文化水準をひきあげるものとしてとらえられ、積極的に推進されたのである。こうした工業誘致の状況を三十二年八月の『埼玉新聞』は「越谷町は地価が安い、東京に近接している。これらの理由から最近東京都内の会社工場が、盛んに越谷周辺の土地に目をつけてきた。町当局としても、工場の進出は町の発展策なので大歓迎、役場内に商工係を特設してあっせんに乗り出している」と報じている。

 このようにして、越谷地域の工業化、都市化は開始されたのである。