さきのライター工場の進出につづいて、三十年十二月には工場誘致の第二号として都内の皮革工場が、瓦曾根地区に五〇〇坪の工場を建設することが決まり、ついで三十二年八月には、資本金四億円、株式市場上場の大和毛織会社誘致の話合いが進められた(しかし、大和毛織会社は実際には進出しなかった)。こうして工場進出ブームが展開されてゆく。
それではその後の工業進出の状況をおってみよう。次の図は工場新設の年次別グラフである。
これによると、三十三年から工場の進出が急激な上昇をつづけ、三十六年には一年間に六五工場の新設工場の増大とピークを示す。三十七年には三九工場と一時低下をみせるが、三十八年には四六工場とまた上向する。
地区別にみると、前頁のグラフのように、蒲生地区の六五工場を筆頭に、出羽地区三三工場、桜井地区二九工場がこれにつづく。
こうして三十八年頃の時点で越谷の工業の地域的構成は、大沢、桜井、新方、大袋、越ヶ谷、増林地区については旧来からの家内工業が最も多く、総事業所の大半を占めているのにたいし(その部門構成についてはすでにのべておいた)、蒲生、出羽、増林、川柳地区では三十五年以後建設された工場が多く、その規模も従業員三〇人以上のものが多いというようにかわってきた。
つぎに、最近の時点に至る間の越谷における工場進出の状況、工業の業種別構成、地域構造の変化をみよう。第23表は二十九年以後の工場数、従業員数の変化である。
年次 | 工場数 | 同対前年増減 | 従業員数 | 同対前年増減 | 工場平均従業員数 |
---|---|---|---|---|---|
昭和29 | 241 | 1,188 | 4.9 | ||
30 | 225 | △ 16 | 1,242 | 54 | 5.5 |
31 | 251 | 26 | 1,344 | 102 | 5.4 |
32 | 232 | △ 19 | 1,491 | 147 | 6.4 |
33 | 252 | 20 | 1,796 | 305 | 7.1 |
34 | 264 | 12 | 2,318 | 522 | 8.8 |
35 | 288 | 24 | 2,966 | 648 | 10.3 |
36 | 388 | 100 | 4,492 | 1,526 | 11.6 |
37 | 382 | △ 6 | 6,027 | 1,535 | 15.8 |
38 | 546 | 264 | 7,777 | 1,350 | 14.2 |
39 | 567 | 21 | 7,959 | 282 | 14.0 |
40 | 622 | 55 | 9,165 | 1,206 | 14.7 |
41 | 781 | 59 | 10,966 | 1,801 | 14.0 |
42 | 774 | △ 7 | 10,956 | △ 10 | 14.2 |
43 | 787 | 13 | 10,644 | △312 | 13.5 |
44 | 952 | 115 | 12,573 | 1,929 | 13.2 |
45 | 947 | △ 5 | 12,880 | 307 | 13.6 |
46 | 929 | △ 18 | 13,326 | 434 | 14.3 |
47 | 949 | 20 | 13,158 | △168 | 13.9 |
工場数でみると三十三年頃より増加傾向がつよまり、ことに三十六年、三十八年、四十四年の増加率は顕著である。越谷における工場進出の最高の増加率は三十八年であり、それ以後全体として伸びはにぶり、四十五年以後は停滞傾向がみられる。しかし、この間二十九年の二四一工場から四七年の九四九工場へと約四倍に増大している。従業員数をみると、この間一二〇〇人弱から一万三〇〇〇人へと一〇倍以上増加している。従業員の増加数の点でもその増加率は三十六~三十八年、四十、四十一、四十四年が顕著で、ことに三十六~三十八年頃が最高率を示す。しかしその後は同じく停滞傾向を示している。
また一工場当り平均の従業員数では、昭和二十九年以降増加をみているが、その最高平均従業員を示す三十七年の例をとってみても、一工場当り一五・八人という数字である。しかもその後の平均従業員数は工場数の増加にくらべむしろ減少傾向を示しており、越谷への工場進出は零細企業によって占められていたといえよう。
それでもこれを従業員数別工場数(第24表)でみてみると、昭和二十九年では三人以下の工場が八二・六%と、そのほとんどが家内工業的企業で占められていたが、三十五年には一〇〇人以上の従業員を持つ工場が四工場現われ、四十二年には三〇〇人以上の工場も進出してきている。しかし全体的にみると四十六年現在でも従業員一〇人以下の工場が七四・一%となっており、その多くが零細な企業であったことが知れる。
昭29 | 35 | 42 | 44 | 46 | |
---|---|---|---|---|---|
3人以下 | 195(82.6) | 197(68.4) | 357(46.1) | 439(46.0) | 430(46.3) |
4~9 | 16(6.8) | 37(12.8) | 204(26.3) | 272(28.5) | 258(27.8) |
10~19 | 19(8.1) | 25(8.7) | 80(10.3) | 109(11.4) | 103(11.1) |
20~29 | 1(0.4) | 8(2.8) | 47(6.1) | 36(3.8) | 37(4.0) |
30~49 | 3(1.3) | 10(3.5) | 34(4.4) | 42(4.4) | 39(4.2) |
50~99 | 2(0.8) | 7(2.4) | 33(4.3) | 31(3.2) | 38(4.1) |
100~199 | 2(0.7) | 16(2.1) | 20(2.1) | 19(2.0) | |
200~299 | 2(0.7) | 3(0.4) | 2(0.2) | 2(0.2) | |
300人以上 | 1(0.1) | 3(0.3) | 3(0.3) | ||
合計 | 236(100.0) | 288(100.0) | 775(100.0) | 954(100.0) | 929(100.0) |
( )は%
このうち業種別部門構成では、昭和三十五年頃までに、木材や木製品それに家具製造の企業数が多かったが、四十年以降になると金属製品工場や機械製造工場数が増大してきた。つまり旧来からの地場産業は四十年代に入ると、金属や機械部分の進出工場にとってかわられたともいえよう。
つぎに業種別製造品出荷額を、第25表でみると、昭和三十四年に電気機械器具や、繊維・食料品の出荷額が大きな比重を占めていたが、三十八年には金属・紙加工品・鉄鋼の順にかわり、四十二年には金属・鉄鋼・紙加工品・食料品の順になる。そして四十六年には金属製品の一〇五億三〇〇〇余万円を筆頭に、紙加工品などの七四億余円、鉄鋼の七〇億余円食糧品の六九億余円、機械の六一億余円となっている。ことに木製品や電気器具などの伸びが低い反面、精密機械器具や非鉄金属、輸送用機械器具など、特殊な部門での大きな伸びがみられるのが一つの特徴ともいえよう。
年 | 34 | 38 | 42 | 46 |
---|---|---|---|---|
総数 | 1,869,661 | 16,150,380 | 36,987,200 | 79,194,470 |
食料品 | 186,622 | 1,107,860 | 3,326,860 | 6,911,200 |
纎維 | 196,962 | 544,230 | 637,990 | 1,622,310 |
衣服・その他 | 17,768 | 323,370 | 331,140 | 885,010 |
木材・木製品 | 77,093 | 175,420 | 634,880 | 327,050 |
家具装備品 | 70,222 | 253,160 | 709,270 | 1,510,940 |
パルプ・紙・紙加工品 | 80,785 | 2,258,840 | 3,364,910 | 7,418,190 |
出版・印刷 | 133,510 | 161,410 | 1,442,220 | |
化学 | 61,570 | 1,611,980 | 1,455,400 | 3,618,380 |
石油・石炭製品 | ||||
ゴム製品 | 274,370 | 906,440 | 1,796,560 | |
皮革・同製品 | 148,792 | 1,053,810 | 1,672,070 | 2,588,440 |
窯業・土石製品 | 150,765 | 408,360 | 1,895,770 | 1,114,250 |
鉄鋼 | 2,009,830 | 3,522,830 | 7,046,500 | |
非鉄金属 | 4,726 | 631,950 | 1,229,900 | |
金属製品 | 122,400 | 2,577,950 | 6,836,490 | 10,530,240 |
機械 | 62,749 | 608,630 | 2,246,860 | 6,189,980 |
電気機械器具 | 242,333 | 823,820 | 1,314,410 | 2,456,630 |
輸送用機械器具 | 36,971 | 293,290 | 373,520 | 1,313,170 |
計量器測定器測量器械等 | 160,170 | |||
精密機械器具 | 242,430 | 4,351,240 | ||
その他 | 409,994 | 1,531,750 | 6,722,570 | 16,842,260 |
単位千円
「越谷市の統計」他
なお表には掲げていないが、昭和三十年当時の工業生産は、年間玩具一億四〇〇〇万円、人形一億五〇〇〇万円、小箱三九〇〇万円、タンス二〇〇〇万円などが主な出荷額であった。これが三十四年には、総額で一八億六九六六万円、三十八年には一六一億五〇三八万円、四十二年には三六九億八七二〇万円と鰻上りの出荷額を示すようになり、四十六年には、七九一億九四四七万円と、四十二年度の倍増を示している。このうち飛躍的な出荷額を示すのが、金属製品であり、次がパルプなどの紙関係、次が鉄鋼、食料、機械の順となっている。ここで特徴を示しているのが、昭和十四年当時、全出荷額の約一三%を占めていた電気機具製造品と、一〇・五%を占めていた繊維製品が、年とともに全体の出荷額比率を低落させていることである。これは比較的大規模な金属工場や、鉄鋼工場等の進出によるものであろう。
工場数、出荷額の面からみて、越谷の工業の部門構成では、旧来のいわば伝統的工業部門は特色をとどめながらもしだいに衰退に向かい、近代的諸部門に傾斜していっている。しかし、全体として軽工業部門の比率がたかく(四十二年では工業数で六一・一%、従業員数で四九・四%、出荷額で四三・〇%)、鉄鋼、非鉄金属などの工業部門が弱いことがいえよう。このような特徴をもった工場進出が三十年代に急速にすすんだのであるが、同時に三十七、三十八年頃より、これをしのぐ勢いで都市化、市街地化、住宅地化がすすみ、公害問題をはじめとする様々な社会問題が顕在化し、四十四年以降は工業の進出も停滞から逆に他地方への移転の方向へと反転するのである。