開発政策の展開と工業

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以上のような工業の動向を市当局の開発政策の展開過程とのかかわりでのべよう。

まず、三十年代以後の都市計画は昭和三十二年九月に市全域が都市計画法適用区域に指定されたことによって急速に具体化してゆく。

 三十三年五月には財団法人都市計画協会に「越谷都市計画策定」を委託し、翌三十四年三月に「越谷都市計画」が策定された。この間、三十三年十一月には越谷市が誕生し、同時に新市建設計画第一次五ヶ年計画に入っている。

 三十四年十月には、この計画にもとづき、市街地六〇〇ヘクタールの開発計画区域内の街路計画が、県都市計画地方審議会の議を経て、建設省告示をもって決定された。この都市計画街路整備事業として三十六年より越谷駅前から東小林に通ずる街路整備事業が着手され、三十七年には谷中・見田方線のうち四号国道から西方に至る街路が整備された。三十九年からは四号国道バイパス工事がはじまり、四十二年十二月に全線開通する。

 生活基盤投資として、三十五年に北越谷土地区画整理事業区域を決定し、北越谷西地区六七ヘクタールの区画整理事業を工費一億四〇〇〇万円を投じ、三十七年から五ヵ年計画(うち三ヵ年事業、二ヵ年事務処理)で実施した。この土地利用計画は住宅が主で二〇〇〇戸、八〇〇〇人を収容できる宅地造成で道路・下水・公園・駅前広場なども整備するというものである。

 ついで三十九年には東小林地区五六ヘクタールの区画整理事業が着手され、四十年代に入ると四十三年に南越谷地区七三・二ヘクタール、四十四年東越谷第一地区一八・三ヘクタール、東越谷第二地区二八・七ヘクタール、千間台一二四・九ヘクタールなどの区画整理事業が次々と着手された。

 水道事業としては、三十三年に越ヶ谷浄水場を完成させた。これは給水人口一万五〇〇〇人、一日最大給水量三〇〇〇トン、越ヶ谷、大沢、瓦曾根の一部に給水するというものである。この事業を最初として、三十五年には第一期拡張事業が完成し、これと大袋簡易水道(三十四年完成)、越谷松伏水道組合(三十六年完成)その他の簡易水道を合わせるとほぼ市内全域に給水できることになった。人口増加の顕著になった三十八年には、昭和五十年を目標に簡易水道総合を含む第二期拡張工事が策定され、三十九年には第二期拡張事業として六ヵ年間の継続事業で越ヶ谷浄水場の拡充、南部浄水場、北部浄水場の新設および各浄水場系配水管敷設事業が着手され、四十五年三月に完成した。これは計画給水人口一二万人、一日最大給水量三万六〇〇〇立方メートルという大規模なものであった。四十四年には増大する水道需要に対応するために、越谷・松伏水道企業団が越谷市水道事業と合併し発足するに至った。

 都市下水道の建設事業については三十九年から着工され、初年度には約一二〇〇万で配水管の敷設をおこなっている。

 こうした都市計画事業は、大きくは、先にのべた三十三年度を第一年度とし、四十二年度までの一〇ヵ年にわたる「新町建設計画」の基本構想をひきつぎ、市制施行後、事業計画の一部を修正した「新市建設計画」の実施(第一年度三十八年~四十二年までの五ヵ年)の基本線にそってすすめられてきたといえる。しかし、現実には、急増する工場進出、激増する人口流入の過程で、生起する諸問題への対応をせまられて、生活、産業基盤整備事業をおこなっていった側面もつよい。

 このような社会基盤投資事業と深くからみあっての工業進出状況を年次別に追ってみると、三十五年当時の新聞報道は、〝月平均七社が進出〟として、

  埼京工業地帯の造成に伴い、越谷地方への工場進出が目ざましいが、このほど日魯漁業(本社東京都千代田区丸の内)のカン詰め、冷凍パン工場の誘致が決まった。一昨年来地主五十数人と、用地買収の交渉をしていたが、このほどまとまったもので、用地は同市下間久里の四号国道東側の田畑五ヘクタール、計画によると来月中に埋め立て鉄骨二階建工場五むねを、来春三月までに完成する予定、同市農業委員会の話では、同市の誘致工場のうちで、東武PSコンクリート(敷地七ヘクタール、工事中)、川口ゴム(五ヘクタール、操業中)につぐ三番目の大規模なもの、同地方への工場進出は、ことしにはいって一ヵ月平均七社にのぼり、現在申請中のものを入れると九十工場に達している。

と、その工場進出の状態を述べている。

 こうした工場進出のラッシュに対応するために市当局は市長部局に工業開発推進本部を設け、計画性と合理性をもたせた都市化をはかろうとし、越谷市・松伏村・吉川町の工場事業主も又、外部資本の進出に対応すべく、三十五年の十月に従来の工業クラブを解散し、あらたに越谷工業連合会を結成している。さらに三十七年一月には市長を理事長とする越谷市総合開発公社を設立し、無秩序な工場進出を防ぎ、総合的な都市計画の推進をはかろうとした。

 こうした対応は、急速で無秩序な工場進出が、都市計画構想を大きく侵食しつつあったことが市当局の開発におけるイニシアチブの掌握を強く要請したことによる。越谷市工業開発推進本部は三十六年に、今後は工場誘致にあたっては、地主と工場主との話し合いだけでなく、市の都市計画の実現と産業道路の設置計画などを考慮に入れ、推進本部とも相談するよう、関係工場主、地主、農地委員会に要請することをきめている。三十九年には、都市計画法による用途地域を決定した。ここでは将来人口一〇万人を想定し、住居地域七九七ヘクタール、商業地域七〇ヘクタール、準工業地域一八四ヘクタール、工業地域一五一ヘクタール、計一二〇二ヘクタールにおよぶ用途地域が決定されている。工業地域は鷺後、登戸地域、準工業地域は東武線越谷・蒲生間の周辺三地域である。

 工場進出は三十六年以後一層盛んになり三十六年に楠本商店、日本鋳鉄、千代田製鋼、歴青起業、ヒサゴヤ(皮革)が進出することが決まり、三十七年には市野産業(皮革)、三十八年には三星化学工業、三十九年には日本瀝青工業、中央圧延、従業員五〇〇人を数える小町屋本店などが進出してきた。