高度成長の波に乗って、農村越谷にも工場が増加し、また新しい企業がぞくぞくと導入された。しかしこれにともない工場公害が各所に波及した。すでに昭和三十一年には、悪臭を放つ蒲生の油紙工場が、付近住民の苦情で問題にされているが、なによりも〝水郷越谷〟を看板にした越谷市にとっては、工場の廃液による河川の汚濁が困った現象であった。たとえば三十八年には、青酸性の廃液を葛西用水に放流して、魚を大量に死失させた越ヶ谷のメッキ工場、悪臭をまき散らし元荒川汚染の元凶とみなされた荻島の魚油工場、四十年には黒い煤煙をまき散らし汚水を放流する蒲生のタイヤ再生工場などが、付近の住民や魚業協同組合から摘発をうけていた。
こうした工場公害の進行に越谷市でも黙止できず、四十二年六月、越谷市公害対策本部を設置、公害除去の対策に乗り出した。そして同年十一月、古利根川に廃液を流していた増林の金属製品工場や、大泊のアルマイト工場を摘発し、これを県公害課に報告した。このため両工場は県当局から廃液処理施設実施の勧告をうけている。
さらに四十三年六月には、蒲生のプレス工場から流される廃液で農業用水が真黒になり、火をつけると水が燃えだすという危険な状態になったため、越谷市公害対策本部では、工場に浄化漕を設置するよう行政指導を行なった。このほか登戸地区でも、同じ年に工場の廃油が水田に流れこんだため稲が枯れるという騒ぎが起きたが、何分工場が多いため、その元凶はつかめなかったようである。こうした事例は氷山の一角であり、水郷越谷は、すでに工場群によって大きく汚されていた。
これに対し越谷市では、四十四年三月、悪質工場には操業中止の強硬措置をとることを決めている。すなわちこれを新聞の報道でみてみると、〝越谷公害追放に強行手段〟との見出しで、
越谷市では、遅ればせながら昨年六月大塚市長を本部長に公害対策本部を設け、悪臭、バイ煙、騒音などの公害を起こすと思われる五〇工場を視察、指導を行ってきたが、新年度は有機化学に強い専門職員を強化、騒音測定機などを購入して改善命令に従がわぬ事業所には操業を中止させるなどの強行手段をとり公害追放に乗りだすことになった。同本部では、毎月一、十、二十日を公害パトロール日と定め、工場の多い同市大袋・蒲生・桜井などの地区を重点的に査察、指導を行ってきた。現在までの調べでは、公害の最も多いのは工場廃液による川の汚れで全体の七〇%、次がバイ煙、騒音となっており、このため〝越谷水郷〟と呼ばれた市内を流れる元荒川は、四十年ごろから肥料・鉄鋼・メッキ工場などの汚水で赤くにごり、悪臭が鼻をつくドブ川と化してしまった。このため同本部では十三社に対し改善命令を出し、汚水浄化そう、脱臭装置、油脂中和装置などをつけさせたが、完全解決したところは一社もなく、中には命令を無視して汚水を平気で流しているものなど、非協力な事業所がある。そこで今後は悪質なものについては強制手段に訴え、公害追放に本腰を入れる。
とこれを報じている。