公害工場の移転

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こうした強硬な公害追放対策などの結果、なかには公害工場を過疎地域に移転させるところもでてきた。すなわち昭和四十五年三月十九日付の同じく新聞の報道によると、〝過疎地帯へ脱出、越谷の一工場 公害の争いきらって〟の見出しで、

  住宅と工場が雑居する新興都市越谷市は、悪臭・汚水・大気汚染などの色とりどりの公害が充満、いつになっても改善しない工場に対し〝市民運動を〟との声が出るなど、一部では事態が険悪化している。板ばさみの市公害係は、その処理に四苦八苦だが、このほど住民とのいざこざをきらって過疎地帯へ脱出する第一号工場が出た。他にも脱出準備をしているところもあり、担当者はこの傾向を歓迎している。

  市企画課の話によると、同市内に工場の進出が盛んになったのは三十年前後、三十五、六年がそのピークに達したが、地下鉄日比谷線の乗り入れ(三十七年五月)実現を契機に下降線をたどった。工場にかわってこんどは住宅建築ブームが起こり、いまは一時間に三軒の家が新築されるという県下きっての人口急増地帯となった。進出工場数はほぼ五百、このうち公害問題を引き起こしているのは三十工場、工場進出が盛んだった当時、都市計画ができていなかったことも影響し、市街地との雑居状態が各地に出現した。

  同市蒲生の東光タイヤ工業会社の埼玉工場もその一つだった。再生タイヤをつくる工場だが、古タイヤを燃料に使うため、煙突から出るばい煙はものすごく、洗たく物にすすがつくといった付近住民の苦情が続出、係では五年越しの改善指導を繰り返している。ところが約十キロ先の北葛飾郡松伏町大川戸に、このほど引っ越した工場では、公害問題もさることながら、工場敷き地が狭過ぎるので、と説明するが、住民は大喜び、公害係では同工場が脱出第一号という。

  悪臭で付近住民の苦情の出ている日本有機会社越谷工場でも、幹部の間で移転を検討し始めた。村田工場長は、移転さきの工場立地、引越しにともなう工場の休業などを考えると、おいそれとはいかない。というが、表向きの姿勢であることには違いない。

  市公害係では、指導を開始すると真先に出る工場側の発言は、住宅より先につくったのに……ということ、これでは話し合いにもならないが、最近は住民の意向も重視するように変った。といっており、ほかにも脱出を検討している工場が二、三あるという。もっとも革新系のある市議のように、公害に対する企業主の姿勢が進歩したのではない、地価の急騰で跡地が高く売れるようになったからだという見方もあるのだが。

といっている。