越ヶ谷の商業は、江戸時代初期に設定された日光街道の宿駅として、近郷近在の商圏の中心として発展してきた。伝馬制が廃止された明治以降も、農産物や工産物の集散地として商工業の中心的役割を果してきたのは変りない。こうした伝統を伝えるものとして、最近までその機能を保っていた二・七の六斎市がある。この六斎市は越ヶ谷町をはじめ近隣農村の地域的市場圏のかなめとして重要な存在であったが、商業構造の変化から、商取引の機能は失われていった。そして昭和三十七年五月、交通量の増大から道路交通法の規制をうけ、三〇〇有余年にわたる日光旧街道の〝ショバ〟を追われて越谷駅前の黒田タクシー脇から越ヶ谷小学校前に至る約二〇〇米の市道に移された。
しかもこの市道の使用も四十三年九月には立退かねばならない契約であったので、関係有志は「二・七市の保存会」を結成、市側や警察署に市道継続使用を強く請願した。永年この六斎市に店を出していたある露店商は、「昔はものすごかったですよ、でも最近はだんだん店も少なくなって、今では本当に好きな連中だけが残ってやっているんです」と、感慨をこめて語っていた。なおこの市道継続使用の請願は認められて、現在にいたっている。