こうした動きの中で四十年頃からの新しい変化としては、スーパーマーケットの進出がある。これらの外部の流通資本は資本力にまかせて駅前を中心にした一級商店街に進出し、在来の零細商業者が全くたちうちできないような販売活動をおこなっていく。四十年頃から七福フードセンター、魚福スーパー、ゴールデン・スーパーなどの近代装備をほどこしたスーパーマーケットの進出、ついで四十三年から四十四年にかけては、松坂屋ストアー、イトーヨーカドー、西友ストアーなど巨大スーパーマーケットの進出につらなってゆく。
人口の増大、ひきつづく巨大流通資本の進出の中で地元商店の対応をみると、地元商店に関する新聞の報道では、「地元商店もかなり深刻な表情、その対応策として店舗を新・改築する店も多い」としながらも、「経営やサービス面では昔のまま」と旧態のままの商店商法を指摘している。市の関係当局も、「経営を近代化しようという自覚が一向にでてこない。経営ゼミナーもがらがらだし、それになによりも団結意識がない」といい、越谷市商工会長も、「たしかに商店主たちは、事の重大さをまだ深く認識していない、生活には困っておらず、ある程度の財産もあるという安心感のためだろう」とこれを評していた。こうして越谷の商業はスーパーを中心とする商業へと転換させられていった。地元商業は急激な都市化に対応しきれなかったといえよう。しかしこうしたなかにあって、一定時間自動車の乗入れを禁止し車の危険に身をさらさず、ゆっくり楽しいショッピンクのできる〝お買物道路〟を四十五年に実現させた蒲生中央通り商店街のごとく一般商店の努力のみられるところもあった。