工場の進出や宅地の造成にともない、特異な現象をみせたのが、金融機関の進出であった。市内の主な金融機関は、それまで埼玉銀行や埼玉信用金庫といった地方銀行に占められていたが、昭和三十九年には武蔵野銀行越谷支店、四十三年には協和銀行、四十五年には三和銀行と住友銀行、四十六年には東海銀行と三菱銀行など、各大手銀行の支店が、いずれも「都市計画街路越谷駅前線」沿いに進出した。
四十六年五月十二日付の新聞は、この間の事情を次のように報じている。
〝銀行通り〟地元民はこう呼ぶようになった。かつてにぎやかだった同駅前から国道四号へ通じる県停車場線は、ややさびれた。銀行通りの近くには大型スーパーマーケット、貸しビル、不動産取引店各事務所、飲食店などもやってきた。通勤者もたくさんここを通るようになった。地価はあれよあれよというばかり暴騰、三・三平方メートル当り、三十六年に二万円、四十二年三十万円、最近進出したある銀行は二、三百万円で買ったとの話しが伝っている。二十年前は幅二メートぐらいの農道が通っていただけ、付近は米もとれない湿田地帯〝変り方の早さにびっくりするほど〟と地元民。銀行ラッシュ、ねらいは土地成金、それに通勤者族、銀行としても体面を保つためには一等地に陣取っておく必要があるからだ。東海銀行越谷支店開設準備委員室は、〝このへんが市の中心ですからね、魅力あるのですよ、うちは後発組ですが切込む自信はもちろん、なんといっても越谷付近は発展するところですから〟と話している。
とある。銀行進出によって面目を一新した駅前通りの様子が端的にうかがえる。