特飲街と佐藤春夫

996~997 / 1164ページ

江戸時代日光街道の宿場に花をそえた大沢町の飯盛旅籠は、明治以降その規模は縮少されたが、周辺地域唯一の特飲街として、情緒豊かな紅灯を元荒川の流れに映して、はなやかな絃歌を断やさなかった。昭和三十一年五月、売春防止法が制定され、永い歴史を秘めた大沢町の花街も廃止される運命を迎えた。

 当時八軒の営業者のうち一軒は、三十二年一月、県下で最初の転業を行なったが、残り七軒の業者も、従業婦の退職により転業を迫られた。その後三十七年五月、詩人佐藤春夫は、平将門の遺跡調査に宝珠花村や岩井町を訪れたが、その際越谷に立寄り、大沢町のありし日の花街を想像して詠んだ一七文字の即吟を残した。

  漾(よう)々と 絃歌泛(うか)べて 夏を呼ぶ

  対岸に 紅灯ありて 凉しさよ

 また越ヶ谷の久伊豆神社から農事試験場に通じる路傍では

  たんぽゝの わたげゆたかに 飛べるかな

と、越谷の野趣にちなんだ作品も表わしていた。なお大沢町の旧花街は、翌三十八年美妓三〇人を擁すといわれた二業界のはなばなしい復活をみたが、三十九年に急死した佐藤春夫は、再び越谷を訪れることはできなかった(大塚伴鹿『わたしの年賀状』)。

佐藤春夫