東京近郊の都市化と越谷

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昭和三十五年以降の高度成長経済の進展に伴う都市化現象は、東京近郊の場合、首都西部の中央線沿線や南部の神奈川県において早い進行を示した。首都北郊の埼玉県や東郊の千葉県では、都市部への交通条件が南・西郊にくらべて劣っていたこと、日本の表通りである東海道メガロポリスに対する裏面の位置にあったこと、中川・荒川水系流域の低湿地形のため、とくに住宅地としての快適性を欠いていたことなどの多くの理由によって、都市化はややおくれてはじまった。

 後進的な埼玉県の都市化のなかでもとくに東武線沿線はおくれがめだち、国鉄幹線の京浜東北線沿線をはじめ、武蔵野台地上の東上線や西武線の沿線にくらべても後進的な地域であった。東武線沿線で都市化の影響が顕著になるのは、昭和三十七年五月の地下鉄日比谷線の北越谷駅乗り入れからであった。その結果、越谷市の社会増人口や農地潰廃面積は加速的に上昇し、ついに今日みられるような東京下町の連続市街地の一角を形成するに至った(次頁写真参照)。この間の越谷の市街地の拡大は、日光街道沿いの列状の町並みから、一挙に国道四号線と東武線を軸とする、およそ三キロメートルの幅をもった街区を形成するようになった。しかしながら、今日では、新都市計画法に基づく市街化区域指定によって、都市化地域は、西縁を草加バイパスで、また東南部と東北部を葛西用水と新方川で限定され、そのなかで都市としての充実へのあゆみを続けている。

昭和40年の越谷市街地

 なお、越谷市の立体的な都市化、つまり建物の高層化からみた都市の発展は、越谷駅東口から元荒川の間にようやく連続的にみられるようになった。そこには銀行・官庁等がややまとまった立地を示すようになったが、デパート等の商業機能の集中はまだまだ不十分である。その点、中心市街地の整備の遅れとバス路線網の粗い状況を考え合わせると、越谷市は地域中心性が弱く、都市勢力圏も狭い田園都市であるといえる。

 一方、越谷市における工場の増加、つまり工業化の動向をみると、高度成長経済の展開とほぼ同時に進出がはじまっているが、その伸び方は、昭和三十六年の三三〇〇アールを境にして急激な低下を示している三十九年以降は、三〇〇アール前後の工場用地転用面積をかぞえるにすぎない状態がつづいていった。結局、越谷市の地域変化は、高度成長経済の当初段階に工業化の形をとってスタートし、間もなく地下鉄乗り入れを境に、都市化(住宅化)へと大きく変容し、今日に至っているわけである。