工場誘致による工場用地の拡大と同時に、農地の宅地転用も急速に増大した。こうした宅地造成の傾向は、すでに昭和三十五、六年ごろからみえはじめていた。すなわち三十六年十二月の新聞報道によると、〝ふえる宅地の買収、農地転用の大半占める〟との見出しで、
越谷市農業委員会が十一月中に受けつけた農地の地目変換件数は、百四件五・二ヘクタールで、前年同月の三倍となった。前年は三十件でうち五件が工場用地、二十五件が宅地だったが、ことしは百四件のうち工場は二件、残り百二件が住宅用となっている。設備投資の引き締めで工場用地が激減、これと反対に住宅地を求める人が月々ふえているためだが、これは来年三月の地下鉄北越谷乗り入れ、加えて北越谷西側一帯の住宅地造成区画整理が軌道にのって近く着工されることなどが農地転用に拍車をかけていると同農委でみている。
とこれを報じている。さらに三十七年一月の新聞では、「同市周辺の出羽・東小林・花田など次々と新しい住宅がふえ、同委の調べだと三十五、六の二年間につぶれた農地は、百二・六ヘクタール、十アール当り平均五俵とみて五千俵の米がとれなくなったかわり、農家のふところには十アール平均百五十万円として、十五億円以上の金がころがりこんだという」とあり、三十五、六年頃から宅造が進行したことを報じている。
ことに三十七年の地下鉄乗り入れで地価も急激に上昇した。三十八年七月の新聞報道では、〝地価ウナギのぼり、五倍にはねあがる〟との見出しで、「地下鉄開通で土地ブー厶にわく越谷市では、農地の工場や宅地への転用が急ピッチで進められているが、これに伴って地価の方もウナギのぼり、ここ三年間に四、五倍の値上がりはザラで、土地を買って家を建てるという庶民の夢は、だんだん遠いものになって行くようだ」といっている。そして北越谷土地区画整理事業を例にして、「三十五年ごろ三・三平方メートル五、六千円した土地が、事業完成後は八千円程度になる予定だった。ところがこのほど保有地八十アールの競売を行ったところ、入札最低価格が三・三平方メートルに一万六千円~二万五千円と、最初の見込みの二・三倍にはね上がり、これが不動産業者の手にかかると、さらに二、三倍になるといわれる」と、土地値上がりの具体例を示している。この農地住宅化の傾向は次図による蒲生東町の農地転用状況からも端的に窺うことができる。
しかもこれら宅造建築のなかには、建築基準スレスレの簡易アパートや、敷地ぎりぎりに建てられた建売り住宅もあり、東京よりも家賃が安いというので、都内から生活保護者がどっと転入してくるので、関係者の頭を痛めていると、三十九年六月の新聞が報道している。こうした無秩序な宅地造成には、四十年七月県でも宅造の大幅規制に乗り出したが、余り効果はなかったようである。そして四十三年ごろになると、越谷市は手のつけられないようなスプロール化が進行していった。同年二月の新聞では、〝目に余る違法建築〟との見出しで、
三時間に一軒の割りで家が建っている越谷市では、無秩序建築によるゴミ処理問題やら下水問題対策に乗出しているが、二十七日、市当局の関係者がスプロール化の激しい市内の新興住宅の実態調査を行った。同市では一ヵ月平均二百五十軒の住宅建設が進められているが、特に蒲生、大袋両地区と、桜井・出羽などの小規模な既設住宅街には、消防車の出入りも困難な場所もあり、現地踏査した各課長らは、違法建築をまざまざと見て〝ひどい〟を連発していた。市当局は、いま建設業者の申請には、各課で協議するほか、道路舗装、緑地帯設置などを強く指導しているが、小規模建設には取締りができないため手を焼いており、同日の踏査でなんらかの対策を立てたいといっている。
と、その実情を報じていた。こうした無秩序な宅造の進行によるスプロール化現象に対し、越谷市では同年四月、土木・都市計画・水道・衛生・清掃の各課、及び農業委員会などで構成した「越谷市宅地造成審査委員会」を設置、市が独自の造成基準を設けて違法建築を締出すことになった。この基準によると、
(1)取付け道路幅は六メートル以上とし、幹線は四メートル以上で舗装とする。
(2)公園・遊園地・広場・貯水池は、全敷地の一・五%を確保、最低でも百平方メートルの敷地をこれらに用いる。
(3)排水路は道路両側に最低二四〇ミリ以上のU字溝などを設ける。
(4)下水を河川に流す場合は、各戸にマンホールを設置するほか処理施設をつくる。
(5)八千人から一万人の収容規模では、小学校を一校分、中学校は市が必要と認めた場合用地を市に無償提供する。
など三九項目にわたっていた。
しかしこの基準は、法律上の不備な点を業者らとの協議によって補うというのがねらいで、実際の建設段階でこれが果して守られるかは保証がなかった。このため市では、東京電力など関係諸機関に協力を要請し、基準を守らない宅造には電気や水道も引かないという強行手段を講じようとした。これに対して業者は、越谷市の造成基準は、一方的なもので、項目によっては守れないものもあるため、これを撤回し、新基準をつくってほしいと申入れた。市ではこの撤回要求を一度は拒否したものの、同年六月、道路幅などで妥協し、表面的には話し合いがついた。
このころ埼玉県では人口三四〇万人を突破し、全国的にも人口増加のはげしい県となったが、このうち越谷市の人口増加は県下で一番の伸びを示していた。もちろん自然増によるものでなく、転入人口などによる社会増が大半を占めていたのはいうまでもない。しかもこの傾向はとどまるところを知らない状況にあった。ことに同年六月には、工業団地用地を住宅団地に用途変更した弥十郎の一画が、小田急不動産によって一九億九〇〇〇万円で買取られ、宅地の開発が進められるようになったので、これらにより転入人口はさらに増加の一途を辿る見とおしであった。
こうした大企業による計画的な宅造はともかくとして、市がなによりも困ったのは、再三のべるように無秩序な宅地乱開発であった。この間の事情は、同年八月二十一日付の新聞も端的にこれを語っている。すなわち〝触れ合う軒、無秩序にふくれる越谷市〟との見出しで、
同市はさる三十九年、都市計画事業に基づいて、用途地域を指定した。住居、商業・重工業・工業と用途別に分けて、全地域のおよそ四分の一の地域を指定した。ところがである、テキは指定地域以外のところをどんどん侵食し始めた。駅からおよそ二十分以上離れたところの田んぼを買占め、土盛りをし、細かく区切って小住宅を建てていった。〝頭金三分の一、残金十年間均等払いで毎月一万数千円なり、銀行ローン併用可〟に飛びついた人たちが殺到した。正直いって十年後には全くスラム化するにちがいない建売り住宅が圧倒的に多い。
と報じていた。これに対し、越谷市では、三十六年から土地区画整理事業に着手、無秩序な宅造によるスプロール化を未然に防止する措置を講じてきた。さらに四十四年六月に施行された新都市計画法にもとづき、市街化調整区域をもうけて、この地域の宅地造成を規制した。この措置は、市街地の無秩序な広がりを防ぐためのもので、調整区域に指定された地域は、向う一〇年間はその開発が抑制されることに定められていた。
こうした一連の施策の結果、宅造地域はいちじるしく制約され、市街化区域の地価が異状な高騰をみせた。このため四十六年ごろからは、建て売り住宅はようやく峠を越し、これにかわって最近のマンションや会社寮など、高層建築がふえるきざしを見せるようになった。