越谷市における就業・通学による市外への流出、ならびに流入人口を、四十五年の国勢調査の結果によって概観すると、第37表のごとくである。すなわち、当時越谷市の人口は一四万二七〇〇人を数えたが、このうち就業・通学を合わせた流出人口は、三万五二四六人である。べッドタウンと評されたのもこのへんの事情によるものであろう。このうち、埼玉県外への流出は二万八五五八人を数えるが、これは主に東京都への流出である。県内では草加の三二六二人を筆頭に、春日部の八六八人、浦和の三六八人、岩槻の三一二人、大宮の二八三人、川口の二八一人、吉川の二六〇人、その他の順になっている。
越谷市から他市町村へ(流出) | 他市町村より越谷市へ(流入) | ||||||
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従業地・通学地 | 総数 | 就業者 | 通学者 | 市町村名 | 総数 | 就業者 | 通学者 |
流出人口 | 35,246 | 31,081 | 4,165 | 流入人口 | 10,138 | 8,469 | 1,669 |
川越市 | 15 | 9 | 6 | 川越市 | 13 | 12 | 1 |
熊谷市 | 14 | 7 | 7 | 熊谷市 | 16 | 12 | 4 |
川口市 | 281 | 261 | 20 | 川口市 | 168 | 154 | 14 |
浦和市 | 368 | 200 | 168 | 浦和市 | 207 | 180 | 27 |
大宮市 | 283 | 151 | 132 | 大宮市 | 196 | 187 | 9 |
加須市 | 48 | 17 | 31 | 所沢市 | 10 | 8 | 2 |
岩槻市 | 312 | 152 | 160 | 加須市 | 209 | 187 | 22 |
春日部市 | 868 | 559 | 309 | 岩槻市 | 339 | 280 | 59 |
上尾市 | 15 | 13 | 2 | 春日部市 | 1,248 | 1,055 | 193 |
与野市 | 44 | 28 | 16 | 羽生市 | 149 | 123 | 26 |
草加市 | 3,262 | 2,716 | 546 | 上尾市 | 41 | 37 | 4 |
蕨市 | 41 | 36 | 5 | 与野市 | 26 | 23 | 3 |
戸田市 | 30 | 28 | 2 | 草加市 | 1,126 | 842 | 284 |
鳩ヶ谷市 | 35 | 35 | ― | 蕨市 | 42 | 39 | 3 |
八潮町 | 204 | 203 | 1 | 戸田市 | 17 | 17 | ― |
宮代町 | 52 | 31 | 21 | 鳩ヶ谷市 | 30 | 30 | ― |
久喜町 | 49 | 23 | 26 | 騎西町 | 15 | 15 | ― |
幸手町 | 80 | 24 | 56 | 北川辺村 | 35 | 27 | 8 |
杉戸町 | 138 | 38 | 100 | 大利根村 | 40 | 29 | 11 |
松伏町 | 112 | 108 | 4 | 八潮町 | 159 | 76 | 83 |
吉川町 | 260 | 259 | 1 | 宮代町 | 226 | 171 | 55 |
三郷町 | 68 | 68 | ― | 久喜町 | 182 | 138 | 44 |
庄和町 | 17 | 17 | ― | 蓮田町 | 14 | 12 | 2 |
県内その他の市町村 | 92 | 80 | 12 | 白岡町 | 30 | 30 | ― |
その他の都道府県 | 28,558 | 26,018 | 2,540 | 栗橋町 | 41 | 35 | 6 |
鷲宮町 | 59 | 44 | 15 | ||||
幸手町 | 293 | 260 | 33 | ||||
杉戸町 | 215 | 171 | 44 | ||||
松伏町 | 502 | 417 | 85 | ||||
吉川町 | 536 | 415 | 121 | ||||
三郷町 | 120 | 58 | 62 | ||||
庄和町 | 230 | 184 | 46 | ||||
県内その他の市町村 | 94 | 84 | 10 | ||||
その他の都道府県 | 3,510 | 3,117 | 393 |
(昭和45年10月1日)
ところで、流入人口を多くかかえた越谷市人口の就業構造、つまり職場と職種についてやや詳しくみると、およそつぎのとおりである。昭和三十年では一五歳以上の就業者は二万人程度で、このうち市内就業者がほとんどであった。職業別にみても半分以上が農業従事者であって、農業地域的色彩が人口の上にも現われていた。農業以外の就業者では、その半分が生産・運輸関係就業者であった。これは、当時越谷市には地場産業としての工業が存在していたため、そこで就業するものが多かったものと考えられる。また、少数ながら下町への通勤者もみられた。
昭和三十五年までは、人口増加の停滞を反映して就業者自体の増加も少なかったが、市内就業者に比して市外就業者の増加が、絶対数ではともかく、増加率としては大幅な増加を示すようになった。通勤先では下町地区、城東地区といった中小工業地帯が増加し、職業別人口では生産・運輸関係就業者の増加が大きかったが、市内工業の従業員数はそれほど多くなかった。これらの通勤者が、下町からの住居移転によってもたらされたものかどうかは明確ではないが、いずれにしても、この段階で多少なりとも下町との間に通勤圏が形成されていたことは事実である。
すでに述べたように、越谷市では、昭和三十年代後半以降急激な人口増加にみまわれたわけであるが、就業状況もこれに伴って著しい変化をみせた。この間に、東京都区部を中心とする人口流入によって、市外就業者が昭和三十五年から四十年の間に二倍以上、昭和四十年から四十五年にもそれに近い増加をみせた。なかでも、それまで少なかった東京の都心地区通勤者が大幅に増加し、昭和四十年には、通勤地の中で最も大きな割合を占めるまでになっている。職業別人口で、事務系就業者がこの一〇年間に、他の職業を上回る大幅な増加率をしめしていることからみて、都心地区へ通勤する事務系就業者の郊外住宅地化が、越谷市でも急速に進んでいるようにみえる。
一方、下町、城東、城北といった地区への通勤者も著しい増加を示し、都心地区通勤者の増加には及ばないものの、昭和三十五年までと同様の傾向を維持し続けている。これと生産・運輸関係就業者の増加の絶対数がきわめて大きいことと考え合わせてみると、下町の工業地帯への通勤化も著しく進んでいるとみることができる。
なお、県内流出分は、隣接する工業都市草加が五〇%を占め圧倒的に強い吸引力を示し、その他の市町村はいずれも二~五%程度を占めるにすぎない。