貸住宅と建売住宅

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急速かつ大規模な越谷市の人口増加と住宅問題について、大まかにいえることは、増加人口の大部分が持ち家と借家によって受け入れられてきたことである。たとえば、昭和四十五年の国勢調査結果によれば、当時の世帯数三万五八三〇戸のうち、持ち家が二万三四九一戸で全体の六六%、民営借家が九五六七戸で二七%、給与住宅が二〇五二戸で六%、その他公営借家、間借、寄宿舎の順になっている。

 ところで越谷市では、これまで、草加市の松原団地や春日部市の武里団地のような大規模公団住宅の造成、および東京西郊のような大手不動産会社による大規模宅造成は、ほとんど行われなかった。このことからもいえるように、市内の持ち家は、注文建築はもちろん、分譲住宅や建売住宅もその多くが零細な不動産業者や建築業者にまって建設されたものである。

 市内の建売住宅は、昭和三十五年にはじめて一件の建設が行われ、その後も数年間は散発的な状態が続いた。急増を示すようになるのは、貸住宅の増加動向と同じように昭和三十九年の八件、四十年の二八件以降であった。こうして昭和四十四年までに、貸住宅で一二四三件(九八万平方メートル)、建売住宅で二一〇件(五八万平方メートル)が建設されていった。

 とくに建売住宅の場合、五八万平方メートルの住宅用地面積から約一割の公共用地分を差し引いた残り五二・二万平方メートルに、一戸平均一二〇平方メートルとして四三〇〇戸、一〇〇平方メートルとすれば五二〇〇戸が建設された計算になる。これは、当時の持ち家の約二二%を建売住宅が占めることを意味しているが、同時に、地下鉄乗り入れ以降に新築された持ち家のおよそ半数に相当することを意味している。

 一方、二七%を占める貸家の比率も大きい。これには業者のほかに都市化に巻き込まれた地区の農民たちも参加している。越谷市内に貸住宅が散見されるようになるのは、地下鉄日比谷線の北越谷駅乗り入れが実現した翌年の昭和三十八年からであり、それ以前は、すくなくとも農地転用記録の上からは存在しなかった。昭和三十八年にはじめて一四件の農地転用をみた貸住宅は、翌三十九年には八四件に急増し、以後も順調な増加を続けて、ついに四十四年には四三五件の年間建設件数をかぞえるに至った。

 その結果、昭和四十五年度現在ですでに一〇〇万平方メートル、一万世帯に近い貸家住宅の存在となった。このことが、すでに述べたような越谷市人口の社会的変動幅をいっそう大きなものにし、社会教育行政上の大きな課題のひとつになっていることは、察するにかたくないことである。なお、これらの建物の増加地域をみると、建売住宅では蒲生の八五件(二五・四万平方メートル)、大袋の三五件(九・七万平方メートル)をはじめ桜井、出羽に多く、貸住宅では、同じく蒲生の二六四件(一七・一万平方メートル)、出羽の二四三件(一二・四万平方メートル)をはじめ大袋、増林、桜井等に多くみられる。結局、貸住宅や建売住宅の出現と増加の動向は、とりもなおさず、越谷市の都市化進展の歴史そのものであり、同時に都市化の方向を如実に示すものである。