昭和三十四年後半にはじまる高度経済成長は、都市化の波と合して、東武線沿線にも多くの工場を立地させた。越谷市内でも工場進出があいつぎ、とくに昭和三十六年、三十八年の増加は急激であった。しかし、その後は住宅化の波に押されて、伸び率は低下していった。それでも、昭和三十六年の三八八工場に比較すると、約一〇年後の工場数は、二・五倍の増加を示し、また従業員数でもおよそ二・五倍、製造品の出荷額に至っては一〇倍をこえるほどに増加している。
もっとも、越谷市内のこれらの工場は一般に零細規模のものが多く、その半数近くが従業員数三人以下の工場によって占められている(昭和四十六年現在)。五〇人以上の企業になると六二社、一〇〇人以上に至っては二四社にすぎない。以上のことから、いわゆる家族労働力を主体とする東京下町型の零細企業群に、越谷市の工業を特色づけることができる。したがって、越谷市では、工場の増加ほどには、工業地域としての性格は深まっていないということができる。また、業種的な特色としては、高度経済成長期以前では、春日部との関連で立地した木工、家具等の伝統的な地場産業がややめだつ存在であったが、その後、昭和四十年の中頃になると、金属・機械と食料品工業が数字の上ではやや高い割合を占めるほかは、あらゆる部門にわたって分布するようになった。最近(昭和五十年)では、高度経済成長期の中心業種が依然として高い地位を占めていることに加えて、江東区―草加―越谷へと、中川、綾瀬川筋に沿って伸びてきた皮革関連産業(一〇社、従業員数一二五一名)と、伝統的な木工・家具関係の工場(一八八社、七九八名)の立地が、越谷市の工場分布にひとつの変化をもたらしている。
つぎに工場の地域分布をみると、草加バイパスと国道四号線付近に主要工場の大部分が立地し、交通条件と工業立地との間に深い関係のあることを示している。しかし、業種的にみた分布状況にはとくに地域的な差はみあたらず、混然とした展開となっている。なお、越谷市内には隣接する草加、春日部のような工業団地はまったく造成されておらず、このことが、越谷市の都市化に工業化の色彩が弱いという印象を与えている。もっとも、計画すら立てられなかったというわけではない。以前に、市の開発公社による工業団地計画が具体的に進められ、用地取得もかなり進んだが、地形と用排水の欠陥それに首都圏整備計画による工業団地の規制から中止となり、小田急不動産へ転売されてしまった。越谷市内で指折りの大型住宅団地といわれる弥栄町の住宅群は、こうして生まれたものであった。