東武鉄道と営団地下鉄の相互乗入

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東武鉄道は、越谷地域の人びとにとっては、自動車を除けば東京と越谷を結ぶ唯一の交通機関であるのは今も変りない。ことに第二・三次産業の高度成長にともない、工場や会社勤めの勤労者が増大したのは農村越谷地域でも例外ではない。すでに昭和三十二年二月二十三日付の新聞報道では、東武鉄道越谷駅の一日平均乗客六四〇〇人のうち定期客が五〇〇〇人、大袋駅でも乗客六〇〇人のうち定期客は四〇〇人を占めているといっている。

 そして第39表にみられるごとく乗客数は年ごとに増加しているが、このうち定期の利用客は、通学を含め七割前後とみてよいであろう。ともかくこうした勤労者による利用傾向の増大に対し、東武鉄道ではいち早く、三十一年十二月、武州大沢駅からの折返し浅草行を設けてダイヤの改正を行なったが、同時にこのとき武州大沢駅は北越谷駅と改名された。

第39表 東武鉄道市内各駅乗客数の推移
駅名 千間台 大袋 北越谷 越谷 蒲生
年度
30 666 1,054 5,178 681 7,579
32 561 1,446 5,501 1,195 8,703
35 1,128 2,296 8,565 1,675 13,664
38 1,765 3,214 13,119 3,765 21,863
44 7,371 6,535 9,640 20,137 11,135 54,818
47 9,315 9,158 12,600 25,449 12,424 68,946
北越谷駅

 ついで帝都高速度交通営団・地下鉄日比谷線と東武鉄道との相互乗入れが計画され、昭和三十七年五月三十日、東武線はじめての橋上駅に改修された始発駅北越谷駅で発車式が行われた。ここに越谷から都心までの所要時間が四五分に短縮されたため、越谷は首都通勤圏内の宅造地域としてにわかに注目されるようになった。なお、地下鉄日比谷線乗入れが、北春日部駅まで延長されたのは、四十一年九月であった。さらに四十一年から春日部市武里に開設された武里団地六二〇〇戸住民の足を確保するため、越谷市上間久里地内に橋上式の団地駅が構築されていたが四十二年四月に完成、駅名は、駅のかたわらを流れる千間堀にちなんで〝せんげん台〟駅と名付けられた。

 また、武蔵野線の開通にともない、越谷駅と蒲生駅の中間に設置された東武線新越谷駅が開設されたのは、四十九年六月のことであった。これで市内に設置された東武鉄道の駅は、越谷駅を中心に、六駅を数えるにいたった。