昭和二十九年十一月、越谷町は町村合併に際し、新町の建設計画を示したが、このなかに道路や堤塘の改修などを国や県に要望するとともに、交通機関では、玉葉線の速やかなる実現を要望している。玉葉線とは、千葉と埼玉、それに東京を結ぶ新鉄道の路線である。すでにこの建設計画は、二十七年ごろから進められていたが、国鉄案でははじめ我孫子―大宮―川越―所沢を結ぶ線を考慮していた。そして三十一年二月、鉄道建設審議会は、東北線電化計画などとともに、武蔵野線(玉葉線)の新設調査を決定した。このときの路線は、我孫子―大宮―与野―立川の各付近を通過する計画であった。
これに対し、埼玉県会議員団では、三十年八月ごろから、我孫子―流山―吉川―越谷―浦和―志木―所沢の路線を要望し、期成同盟会を組織して関係当局に働きかけた。しかし国鉄では三十一年七月、空中写真などによる調査の結果、路線は千葉県柏から川口に通じるのが適当であるとの見解を発表した。これに驚いた浦和市では、関係市町村に呼びかけ、武蔵野線建設促進同盟会を組織し、流山―越谷―浦和通過の路線実現を強力に陳情した。これで県の意向もおよそこの路線を再確認し、三十一年十一月、流山―浦和路線の誘致を決定した。これで大宮通過、川口通過路線の二案は、県から見放された形になった。
それでも大宮・春日部・岩槻・千葉県野田の各市は、関係町村とともに、三十二年二月、現在の柏から大宮に至る東武野田線を国鉄側で買収し、これを武蔵野線にふりかえる運動を起す申合せなどを行い、執拗に武蔵野線の誘致を図ったりした。
ともかく国鉄では、三十三年の春から県の決定路線にもとづき、武蔵野線の建設に着工する予定であったが、こんどは川口市を中心とした「武蔵野線建設協力会」による蕨―草加―川口―戸田をつなぐ路線の誘致運動がはげしくなったため国鉄側も着工をしぶり、静観のほかないとさじを投げたようである。
それでも国鉄新橋工事局では、その後も航空測量その他実地測量を実施し、武蔵野線着工の準備を進めた。その結果、三十四年十二月、武蔵野線の路線につき、第一案として南柏―三郷―草加―鳩谷―川口―西川口、第二案として南柏―流山―越谷(蒲生)―南浦和の二案にしぼり、これを国鉄本社に具申した。関係当局はこの具申にもとづき、県や関係市町村における意向の調整をはかったうえ最終的な路線を定めた。そして三十九年四月、運輸大臣は日本鉄道建設公団総裁に対し、松戸―吉川―越谷―浦和―所沢―国分寺―府中に至る武蔵野線基本計画を示してその実施を指示した。
武蔵野線が具体的な計画にのぼってから実に十二年、この間大宮・浦和・川口各通過路線の誘致をめぐり、はげしい運動が展開されるなどの動きがあって建設計画も、宇余曲折を経たが、ここにようやく実現をみることになったわけである。そしてこの年から鉄道用地の土地買収などが進められ、四十年十一月路線の建設がはじめられたが、越谷地内の建設工事は四十一年四月ごろである。
かくて工事は多少のトラブルが発生したものの順調な経過をたどり、四十八年四月一日に開通式が行われることになった。なお当時の武蔵野線の模様や沿線の景観を、四十八年一月七日付の新聞報道によってこれをみると、次のごとくである。
今春から県内を〝外廻り山手線〟と呼ばれる武蔵野線が走り出す。千葉県小金から神奈川県小倉まで全長九六キロのうち、四月一日から千葉新松戸駅―東京府中本町駅間五七・五キロが開通する。着工費一千四百億円、四十年十一月着工以来七年がかりのマンモス事業、東京から放射する〝南北鉄道〟ばかりの県下に、東西を結ぶ大動脈が誕生するのだ。
そこで新松戸駅を起点に県内の三郷駅―北朝霞駅間を鉄道公団の工事用トロッコで走ってみた。真っ白の砂利を敷きつめたレールの上を、トロッコは千葉県西部の水田地帯をぬって直進、時速十五キロ、全くおおいがないため寒風がホオを刺しつま先から底冷えが伝わってくる。
江戸川を渡ったとたんに三郷駅。この駅は両側にプラットホームが並んだ〝相対式駅〟だ、駅周辺の田畑は区画整理の真っ最中、開通後はまたたく間に〝駅前都市〟が出現することだろう。巨大な武蔵野操車場を突っきって吉川駅へ。次が南越谷駅、ここで東武伊勢崎線と交差するので東武は新駅を建設するという。東隣の貨物ターミナルは広さ一八万平方メートル、年間三百万トンの貨物をさばく流通センターだ。
NHKの鉄塔(川口市上青木町)を左手にながめている間に東川口、東浦和を通過した。武蔵野線には〝踏切〟が一つもない。すべて立体交差で東海道新幹線並み、このためゆっくり走るトロッコでもスピード感は抜群、東浦和駅の上を通る路上に〝祝武蔵野線開通〟の看板が立っていた。
南浦和駅は京浜東北線と交差するので、大宮と肩を並べるターミナル駅に発展しよう。だが周囲の土地区画整理は難航中とあって駅前は草ぼうぼうの〝ゴーストタウン〟。トロッコに同乗の長谷川行男鉄建公団浦和建設所長は、開通すれば都市づくりはアッという間、とニッコリ。
荒川を渡る鉄橋は一二九三メートルと富士川鉄橋に次ぐ日本第二位の長さ、朝霞テックを過ぎると北朝霞駅、ここから新座、東所沢まで県内では約三十七・七キロだが、ここを時速九〇キロで赤茶色の電車が突っ走る日も近い。国鉄首都圏本部の説明によると、武蔵野線は首都圏二十五―三十キロ圏を走り、直経約十キロの山手線よりぐんと大回り、客車は一日四十往復の予定、いままで大宮から国分寺へ行くのに、赤羽、池袋、新宿と三度も乗換え一時間半もかかっていたのが、乗換えなしで三分の一以下に時間短縮される。約六十万人にのぼる東京通勤客の足もぐんと便利になるほか、県開発部では、今後ふえる一方の県内工業、近郊農産物を都心を通さず、中京、関西方面に輸送する効果はきわめて大きい、といっている。
とある。すなわち武蔵野線は、東京の外廻り環状線のうちの一環であり、将来、松戸市小金から西船橋に至る小金線、川崎市塩浜から東京湾に沿い西船橋に至る京葉線が建設され〝外廻り山手線〟が誕生する予定となっている。
なお武蔵野線開通後、南越谷駅と東武線を結ぶ連絡駅の開設が遅れていたが、四十九年六月、一年二ヵ月ぶりに開設され、「新越谷駅」と名付けられた。