国道四号線の改良

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昭和初期の国際的な大不況に際し、政府は失業救済事業の一環として、国道の改良工事に着手した。このうち国道四号線の改良工事は、昭和六年から始められたが、六、七年度には、東京市足立区千住町地先から道路幅二五米、延長五・二粁の舗装新道が開設され、東武電車との交差も立体交差に改良された。引続き昭和八年度には、草加町まで幅一五米、延長一・五八粁の舗装新道が造成されたが、昭和十年度以降も草加町、新田村および蒲生村までの国道改良の施工が進められた。しかしこの事業は、失業救済を目的とした事業で、四号国道改良の一貫した継続事業ではなかったので、草加町から宇都宮市までの関係市町村では、国道改良期成同盟会を結成し、年度の切替えごとに事業継続の陳情を繰返していた。

 このうち昭和十一年に国務省にだされた陳情書(「国道改良期成会綴」)により、当時の四号国道の事情をみると、つぎのごとくである。まず〝緒言〟として、

  昔日光街道トシテ又奥州街道トシテ五街道ノ一ニ数ヘラレ、徳川三百年ノ間最モ重要視サレシ吾ガ四号国道ハ、時代ノ眩ルシキ変還ニ伴ヒ、或ハ幅員ヲ拡張シ、或ハ路面ヲ補修スル等絶エズ維持改良ガ加ヘラレ、ヨク時代ノ要求ニ応ジ来レリ、

  然ルニ近時国運ノ進展ト自動車ノ普及発達ニ伴ヒ、道路ニヨル物資ノ輸送及一般交通ハ著シク増加シ、諸事ノ輻輳甚ダシク、為ニ国道ノ幅員ハ狭隘トナリ路面ノ維持又極メテ困難トナレリ、従ツテ此等諸車ノ交通ハ著シク円滑ヲ欠キ戦慄スベキ交通事故ハ続出シテ、今ヤ国道ハ魔道ト変リ、沿道居住者ハ常ニ道路ノ危険ニ悩ミツヽアル状態ナリ

  斯ク吾ガ国東北部ノ大動脈四号国道が、時代ノ進展ニ遅レ旧態依然タルハ、産業上軍事上極メテ遺憾ノコトニシテ、コレガ改良ハ焦眉ノ急務ナリ

としている。そして道路の現況として、

  東京市ヨリ宇都宮市ニ至ル現在国道ハ、市街地ヲ除クノ外殆ンド砂利道ニシテ、其幅員ハ大半六米前後ナリ(中略)、高速車輛ノ激増ニヨリ路面ノ損壊甚ダシク、其維持極メテ困難トナレリ、而シテ一朝降雨ニ際シテハ泥土ヲ飛散シ、乾燥スレバ一自動車ノ通行毎ニ蒙々タル砂塵ヲ挙ゲ一般行人及ビ沿道居住者ヲシテ常ニ道路ノ不快ニ悩マシメツヽアル状態ニシテ、其与フル障害ハ全ク想像ニ余リアリ

とのべ、このため沿道町村の産業や観光事業の発展がいちじるしく阻害されているとしている。さらに交通状況としては、

  本国道線ハ、東京市ニ近接シ、蔬菜以下農産物ノ主要供給地タルノミナラズ、東京市ヨリ搬出スル雑貨及肥料等ノ消費地タルヲ以テ之等ヲ輸送スル貨物自動車ノ数ハ特ニ多ク、一般乗用車等ヲ加ヘ高速車輛ノ交通量ハ自転車ニ次ギ、越ヶ谷町人口ニ於テ総交通量ノ約三割ニ達ス、東京・宇都宮間ニ於ケル国道一日ノ交通量ハ、昭和十一年五月十八日午前七時ヨリ午後十時ニ至ル十五時間ノ調査ニヨレバ、千住新橋ニ於テ高速車輛約六千台、自転車一万八千台、総数三万、越ヶ谷町入口ニ於テ高速車輛約一千五百台、自転車三千台、総数五千、栗橋町ニ於テ高速車輛約六百台、自転車千六百台、総数二千六百、宇都宮市入口ニ於テ高速車輛約三百台、自転車一千二百台、総数二千ニ達シ、之ヲ昭和八年十月調査ノ交通量ト比較スルニ、千住新橋ニ於テ自転車約一・六倍、自動自転車二・六倍、貨物自動車約二・三倍、越ヶ谷町入口ニ於テ自転車四・一倍、自動自転車三・五倍、乗用自動車三倍、貨物自動車二・二倍ノ増加ヲ示シ、何レモ自転車及高速車輛ノ激増ヲ示セリ、斯クノ如ク本国道ニ於ケル交通量ハ年ト共ニ増加

するとのべ、これにともない交通事故も激増し、たとえば一般通行人に死傷を与えるような大事故だけでも昭和九年度が二三四件、昭和十年度が二八三件にも達しているとしている。したがって四号国道の改修は焦眉の急務であり、改修事業の継続は絶対に必要であることを説いていた。

 なお第40表に示した交通量調査で、特異な推移をみせているのが、歩行者ならびに荷車・牛馬車の通行量である。すなわち昭和八年に比して昭和十一年には、自動車や自転車の増加に反し、いちじるしい減少をみせている。すでに人力車や荷馬車類は、自動車にとってかわられていたのである。

第40表 国道四号線越ヶ谷町入口交通量調査(午前7時~午後10時)
年次 昭和8年 昭和11年
種別
歩行者 458 437
自転者 759 3,128
荷車 223 56
牛馬車 40 11
自動自転車 20 69
乗用自動車 118 341
貨物自動車 440 974
総計 2,058 5,016

 ともかく昭和七年以降埼玉県内関係町村による四号国道改良期成会は、県ならびに政府当局に改良促進の陳情を重ねてきたが、昭和十年には宇都宮市に至る関係町村を併せ、京宮国道改良期成会と称して強力な運動を進めた。その結果、改良事業は小規模ながら継続され、昭和十六年にはほぼ大沢町にまで達した。ところが同年の太平洋戦突入により四号国道の改良工事は中断されるに至った。