四号バイバスの開通

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昭和二十年八月、太平洋戦の終結を契機に、同年十二月、四号国道沿いの関係町村は、ただちに中断していた国道改良事業の再開を願い、国道改良期成同盟の復活をはかって政府に働きかけた。しかし戦後の混乱から改良工事は見送られ、本格的な拡張工事が施工されたのは昭和二十五年からであった。そして三十年には大沢地区以南の拡張舗装工事が完成したが、翌三十一年からは大沢以北春日部まで五・八キロの拡張工事が急ピッチで進められた。だがこれが舗装されるのは三十二年を待たねばならず、この間泥とほこりと凹凸で、沿道の住民をはじめ通行車輛は困惑をきわめた。

 しかし快適な舗装道路が実現したとたん、こんどはスピードの出し過ぎ等による交通事故が続出した。すなわち三十三年十一月春日部・越谷・草加三署が交通事故の発表を行なったが、これによると、同年一月から十一月十八日までの人身事故は合計四七件、このうち死者は六人、重傷者が一一人、軽傷者が二七人という記録破りの事故となっており、昔の日光街道は今では魔の街道と化したといっている。

 また四号国道の一日平均交通量も三十六年には、越谷地域でモーターバイク以上の車輛が一万八九八八台、三十七年には二万三五七一台にのぼった。この内訳は、オート三輪車が減少したのに反し、普通と大型を含め、トラックが三十六年には一万一五六八台、三十七年には一万四六八七台と、年ごとに貨物自動車が激増する傾向をみせていた。交通量の激増にともない事故も増大し、三十七年度は十一月二十七日現在で負傷者二八八人、死者三一人を数え、すでに昨年一年間の死傷者数を上回ったと新聞がこれを報じていた。

 こうした交通量の増大に対処し、建設省当局は三十九年度から総工費約五〇億円の予算で、足立区保木間から越谷市上間久里にいたる十五・二キロの国道四号草加バイパスの建設に着手したが、四十二年四月には下り二車線が開通した。ついで同年十二月全面開通にいたった。この草加バイパスは四号国道交通量の緩和をはかったものだが、すでに越谷市の統計によると、四十四年のときで一日の平均交通量は、草加バイパスで三万一二五〇台、四号国道で二万〇四八二台に達しており、交通量は年々増大の一途をたどっていた。

 なお草加バイパスは、その後四号国道にふり替えとなったので、保木間から上間久里までの四号国道は、旧四号県道に変更された。

バイパスの全面開通