浦和・越谷県道

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浦和・越谷県道も古くからの主要な街道であったが、昭和二十六年、浦和都市計画街路事業として拡張工事が越谷側から施工された。ところがあと少しで中山道に通じる最終地点で、道路用地を開放しない一軒の旅館のため、二十八年から二年間工事を停止せざるを得なかった。

 しかし三十一年三月、旅館側が立退きを承知したため同年ようやく開通したが、これが全面舗装されるのは、四十二年の埼玉国体を待たねばならなかった。したがって埼玉国体のときに舗装されたこれら道路を人びとは国体道路と呼んだ。ともかく現在は県道や市道とも、主要な道路はいずれも舗装道路に衣替えしたが、四十五、六年頃までは、県道吉川線をはじめ砂利道が多かったのである。

 また越谷市は都市計画の一環として、越谷駅前通りの新道建設をはじめ、道幅一六メートル乃至一二メールにわたる市内環状道路の建設を計画したが、道路用地の買収などで難航し、順調な進捗をみせていないようである。なかには八潮から着工された産業道路のように、蒲生でストップしたままでいるものもある。